学力低下(笑)

子供の学力が低下しているとお嘆きの人がいるらしいが、そもそもかつての日本人に学力があったのかという疑問がある。大体学力が低下したというのなら、以前は今よりは優秀な学力があったという命題も成り立つ。
ではなぜそのかつての優秀な世代が子供を教えているはずなのに(突然小中学校の先生が全部外人に代わったなんて話は聞いたこともないし当然事実でもない)子供の学力が低下するのか?それは教える側に実は学力がないのではないかという仮説を浮かばせる。
学力を何と定義するかは難しい問題だが、ペーパーテストの結果を問うというのであれば何も対象を小中学生のような若年層に限らず、全年齢に渡って同じテストを受けさせてみると良い。一体中高年層と若年層との間にどれほどの差が出ると言うのだろうか?
ペーパーテストなどというものの大半は、直前に解答を暗記してやっとこさそれなりの点数を取っているというのが実状なのだから、抜き打ちテストをすればどの年代だろうが大体は散々な結果になることは容易に想像がつく。
日本人が身につけている学力、などというものは実際、本当に大した水準ではない。今学力テストの結果が下がっているのは学力が下がっているのではなく、背伸びをしなくなって地が出ていると見ることができる。
今までの一生懸命背伸びして表面に貼り付けていたメッキが、耐用年数を超えてしまって単に剥がれ落ちてきただけではないか。自分で思索する、科学的思考を身に付けるという発想がない民族に、欧米のような論理性はないし、借り物だから身にはつかないだろう。借り物ではなく自分の血肉とする訓練を行わない限り、日本の白痴性がどんどん顕在化していくのも時間の問題である。

日本国内の言説は全て精妙深遠な呪術

山田弘明の『形而上学「方法序説」第四部』を読んでいる。デカルトはいう。Je pense, donc je suis, cogito erugo sum。日本語では、我思うゆえに我あり、と訳されて流通しているが、問題は、日本国内で言われる「思う」とpenser(一人称Jeに対する動詞penseの一般形)という概念が同じかどうかということだ。これはどうも違うのではないか。日本国内で日本人が「世の中は全て幻だけれど自分が存在することは疑い得ない」ことを確認するためにこのフレーズは使われているわけであるが、日本人が「思う」という言葉で連想する質感とpenserが同じものとは限らないし、思う(penser)から存在する(exister)という言葉の連関で連想される質感も別のものだろう。デカルトが言っているJe pense, donc je suisというのは、理性で思考するから私は存在する、ということであろうが、日本語でいう「我思うゆえに我あり」における「思う」というのは、理性思考というよりも情動感性のことを言っており、情動感性がある限りで我(日本人)は存在する、と主張したいようだ。つまり、ここには、penserを「思う」と訳し、更に「我思うゆえに我あり」というフレーズ全体を形式化することで、間接的に「日本人は情動感性があるから存在する」という真相を隠喩するという魔術が遂行されているのである。また、山田はデカルトの心身二元論を援用して、精神と身体は分離されると主張する。しかし、ここで山田が日本人として主張したいのは、デカルトのいうようなことではなく、脳内の主観的世界と身体的経験は別ということではないか。それゆえに、デカルトが、心身の対応関係について解明し切れていない点をことさらに利用して、主観的世界と身体的経験の関係をうやむやにしようとするのである。したがってこの山田弘明の本は、実はデカルトに対する論考ではなく、デカルトを利用して日本人の心の問題を解決するという精妙深遠な呪術的手法なのである。いずれにせよ、デカルトの論考には価値があるが、山田の評論はクソということだけは確かである。

シヴィックと人心風俗は対応するか

前述の佐伯は同書182頁で西洋のシヴィック精神と対応するものが日本の人心風俗にあるというのだが、これはどうみても嘘だろう。そもそも日本人は「精神」という言葉を使うが、これが名目として使われるとき、実質的精神のほかに何となく感情の雰囲気も含ませることができる。つまり、ここで精神という形式語を使うのは、西洋のシヴィックという実質的精神と日本の人心風俗を対応させようとする卑劣なレトリックだろう。つまり、日本のどこを探しても市民精神など見つからないので、感情の中にある士風などという雰囲気をレトリックによって強引に市民精神と結びつけ、綻びそうなところは別のレトリックで封印しよう(そもそも日本語など実在するのか)という手法である。また、士風を日本古来よりの精神の伝統(184頁7行目)としているが、士風は精神の伝統なのか。そもそも日本人に精神などないのではないか。日本人は古来よりただ生活をしているだけで、卑弥呼の鬼道にみるごとく、宗教的な言葉を使用して人心煽動するのが得意という他は何の見るべきものもない。また、徳川幕府が無血開城したときに失われる程度の士風なのであれば最初から存在していなかったのだろう。佐伯は、181頁で、人心風俗と精神は密接な関係にあり、前者が変わらねば後者は変わらない、と言っているが、人心風俗と精神は無関係なのではないか。むしろ精神は身体経験から形成され、人心風俗といった感情的なことはまた脳の別領域にある。精神は脳の表層(大脳新皮質)にあり、人心は辺縁系にある。皮質では数学論理などの先験的観念と経験による後天的観念が存在し、これは辺縁系とは関係がない。この両者を関係があるかのように言うのが日本の似非科学者である。