憲法12条の生々しい実態

私見によれば、日本法の中で最も権威のある条文は、憲法第12条の「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」である。つまり、国民に人権は認めるが、それを恣意のままに行使するのではなく、「公共の福祉のために使え」と命令しているわけである。要するに、絶対主義と相対主義の中間こそが日本国憲法の目指している状態である。この内容は実のところどの憲法学者も説明していない。憲法学者は、12条を素直に読むことを意図的に回避し、日本ではあたかも個人主義が成立しているかのように語るのである。しかし、12条を読めば、認められているのは個人主義ではなく、個人主義かつ全体主義であることが明らかである。これを分かりやすく言うならば、個人主義的に能力を発達させ、その能力を全体のために使え、ということである。その考え方は日本社会にきちんと存在している。つまり、社会に出るまでは国民を頭の悪い猿のままにしておいて、個人主義の中で競争をさせて能力を練磨させ、就職活動で生魚にカツを入れるように殺し、能力はあるが死んだ社会人を量産していく(サラリーマンとは要するに殺したばかりの生魚だ)。これが憲法12条の「生々しい実態」である。憲法学者が12条の趣旨を明らかにしないのも、社会のこのシステムに若者が感づかないようにするためであろう。ちなみに、12条は全法体系の根本原理となっており、公法私法一元論もこの条文に根拠付けられると解する。学界でそのようにしていないのは、そもそも公法私法一元論が日本において過渡的な現象にすぎず、確定していないからであろう(法律界でこれを確定していないということは公法私法二元論の時代に回帰する可能性もあるということだ、怖い怖い)。現在は、役所の事務形態を見れば分かるように、過渡的一元論の時代である。行政法も私法もあくまで公共の福祉をための手段にすぎず、一元的原理の下に統括できると「過渡的に」考えられているのである。