判決にみる司法社会の妙な法則

S51.03.16第三小法廷決定昭和50(あ)146道路交通法違反、公務執行妨害(第30巻2号187頁)は、任意捜査における有形力の行使について、「捜査において強制手段を用いることは、法律の根拠規定がある場合に限り許容されるものである。しかしながら、ここにいう強制手段とは、有形力の行使を伴う手段を意味するものではなく、個人の意思を制圧し、身体、住居、財産等に制約を加えて強制的に捜査目的を実現する行為など、特別の根拠規定がなければ許容することが相当でない手段を意味するものであつて、右の程度に至らない有形力の行使は、任意捜査においても許容される場合があるといわなければならない。ただ、強制手段にあたらない有形力の行使であつても、何らかの法益を侵害し又は侵害するおそれがあるのであるから、状況のいかんを問わず常に許容されるものと解するのは相当でなく、必要性、緊急性などをも考慮したうえ、具体的状況のもとで相当と認められる限度において許容されるものと解すべきである。」として、玉虫色であるが柔軟に解釈している。このようなあいまいな判断基準はいかにも「霞ヶ関文学」であり、官僚の支配を受けている最高裁独特のものである。これに対して、第一審の判決は「A巡査による右の制止行為は、任意捜査の限界を超え、実質上被告人を逮捕するのと同様の効果を得ようとする強制力の行使であつて、違法であるから、公務執行妨害罪にいう公務にあたらないうえ、被告人にとつては急迫不正の侵害であるから、これに対し被告人が右の暴行を加えたことは、行動の自由を実現するためにしたやむをえないものというべきであり、正当防衛として暴行罪も成立しない」と判示している。これはいかにも理論通りで、司法試験を終えて間もない若い裁判官が書くある意味で幼稚な判決である。ちなみに原判決は、一審判決を誤りとし、「A巡査が被告人の左斜め前に立ち、両手でその左手首を掴んだ行為は、その程度もさほど強いものではなかつたから、本件による捜査の必要性、緊急性に照らすときは、呼気検査の拒否に対し翻意を促すための説得手段として客観的に相当と認められる実力行使というべきであり、また、その直後にA巡査がとつた行動は、被告人の粗暴な振舞を制止するためのものと認められるので、同巡査のこれらの行動は、被告人を逮捕するのと同様の効果を得ようとする強制力の行使にあたるということはできず、かつ、被告人が同巡査の両手を振り払つた後に加えた暴行は、反撃ではなくて新たな攻撃と認めるべきであるから、被告人の暴行はすべてこれを正当防衛と評価することができない」と判示している。最高裁のような正式な基準こそ示していないものの、「客観的に相当」というタームを用いるなど、いかにも官僚的な判断に近づいており、歳をとるほど司法の世界が霞ヶ関文学の世界に近接していくことを示している。この一連の裁判からわかるのは、司法試験終了後何年かは、学者の基本書どおりの司法判断をする傾向があるが、審級が上がるにつれて、だんだんと玉虫色のあいまいな判断基準になるということだ。おそらく、最初のころは正義心に燃えて、理論どおりの法適用をするが、裁判経験の積み重ねによって現実を知るようになるとともに、正義への情熱も薄れ、長いものに巻かれることをこととしはじめるために、このような判断傾向を示すようになるのではないか。いずれにせよ、最初のころは正義心に富んでいた者も、さまざまな抵抗によって正義心を殺がれていき、司法の世界に堆積した曰く言いがたい判断慣行を破れないのは意気阻喪するものがある。それにしても、第一審の判断は理論的であり、審級が上がるにつれて、霞ヶ関文学的な判断になっていくという法則には、どこに正当性があるのだろうか。普通、裁判は、級が上がるほど理論に近い正しい判断をしていかねばならないのに、逆に理論から遠ざかるのでは意味がない。実は上訴されるたびに、正しい判断ではなく、官僚的な不正な判断がされるだけだということに多くの国民が気づいていない。本当は第一審が法的にはもっとも信頼でき、二審、最高裁は、正義の観点からはかなり怪しいところがある。上訴されることによって喜ぶのは、お金の儲かる弁護士などの司法関係者ではないか。