特殊講義「現代詩、現代宗教と法」

科学総合大学が小説家養成大学になったり詐欺師養成学校になったりするのは日本だけである。少なくとも客観概念としては矛盾している。知的貧困社会ニッポンにおかれましては、ありもしない科学総合大学を妄想で作り出してそのままの名前を与え、小説家や詐欺師を量産する機能を営ませるのであります。

そもそも我が国に機能として科学総合大学だといいうる大学はありましょうか。そりゃ田舎の方にいけばありましょう。しかしその業績はどうでしょうか。まあ期待はできません。ないという説もあります。場合によっては天才的な子の受験準備期間だけが日本人の科学的行為であるという説もある。

無能で邪悪な著者は平気でウソをつきます。無能で邪悪であることを隠すためである。どうしようもないクズが権威を傘に借りて自己を主張する点が実におぞましい。こう言う輩は量子論的物理学的文学的四次元殺法できれいに料理して有能な善良者が食すに限ります。

学歴受験競争に打ち勝ち、科学総合大学で科学をやって社会に出たところが、多面的万華鏡的詩的概念が宗教と結合して支配する戦慄的悲劇的な神学的空間とはいかなる事態でありましょう。大学が竜宮城で、もらった玉手箱を開けたら、周囲がみんな子どもになり、自分だけ大人になったのであります。

法律のごときは、西洋のシュールレアリスムと東洋の諦観が調和し、言葉と言葉が金属的に摩擦してきしみ合い、苦々しい日常性の時間の中に魅惑の陶酔空間を作り上げるが、根底にあるのは常に日本農民の土着的リアリズムと宮廷政治という日常的経験的現実であります。

各人が他人の不利益に愉悦する怨念が夢を駆動しこれを時間が調整して実存主義へとつながって行く。この永遠に建設的生産的なるものが明日も明後日も道路を支配するのであります。音声学的、意味論的、解釈学的、民族学的な諸世界の定義関係が、天皇制の具体的歴史的な政治社会の現実において重なり合うとき、虚実一致の悟りの境地を開くのであります。