日本国内の言説は全て精妙深遠な呪術

山田弘明の『形而上学「方法序説」第四部』を読んでいる。デカルトはいう。Je pense, donc je suis, cogito erugo sum。日本語では、我思うゆえに我あり、と訳されて流通しているが、問題は、日本国内で言われる「思う」とpenser(一人称Jeに対する動詞penseの一般形)という概念が同じかどうかということだ。これはどうも違うのではないか。日本国内で日本人が「世の中は全て幻だけれど自分が存在することは疑い得ない」ことを確認するためにこのフレーズは使われているわけであるが、日本人が「思う」という言葉で連想する質感とpenserが同じものとは限らないし、思う(penser)から存在する(exister)という言葉の連関で連想される質感も別のものだろう。デカルトが言っているJe pense, donc je suisというのは、理性で思考するから私は存在する、ということであろうが、日本語でいう「我思うゆえに我あり」における「思う」というのは、理性思考というよりも情動感性のことを言っており、情動感性がある限りで我(日本人)は存在する、と主張したいようだ。つまり、ここには、penserを「思う」と訳し、更に「我思うゆえに我あり」というフレーズ全体を形式化することで、間接的に「日本人は情動感性があるから存在する」という真相を隠喩するという魔術が遂行されているのである。また、山田はデカルトの心身二元論を援用して、精神と身体は分離されると主張する。しかし、ここで山田が日本人として主張したいのは、デカルトのいうようなことではなく、脳内の主観的世界と身体的経験は別ということではないか。それゆえに、デカルトが、心身の対応関係について解明し切れていない点をことさらに利用して、主観的世界と身体的経験の関係をうやむやにしようとするのである。したがってこの山田弘明の本は、実はデカルトに対する論考ではなく、デカルトを利用して日本人の心の問題を解決するという精妙深遠な呪術的手法なのである。いずれにせよ、デカルトの論考には価値があるが、山田の評論はクソということだけは確かである。