シヴィックと人心風俗は対応するか

前述の佐伯は同書182頁で西洋のシヴィック精神と対応するものが日本の人心風俗にあるというのだが、これはどうみても嘘だろう。そもそも日本人は「精神」という言葉を使うが、これが名目として使われるとき、実質的精神のほかに何となく感情の雰囲気も含ませることができる。つまり、ここで精神という形式語を使うのは、西洋のシヴィックという実質的精神と日本の人心風俗を対応させようとする卑劣なレトリックだろう。つまり、日本のどこを探しても市民精神など見つからないので、感情の中にある士風などという雰囲気をレトリックによって強引に市民精神と結びつけ、綻びそうなところは別のレトリックで封印しよう(そもそも日本語など実在するのか)という手法である。また、士風を日本古来よりの精神の伝統(184頁7行目)としているが、士風は精神の伝統なのか。そもそも日本人に精神などないのではないか。日本人は古来よりただ生活をしているだけで、卑弥呼の鬼道にみるごとく、宗教的な言葉を使用して人心煽動するのが得意という他は何の見るべきものもない。また、徳川幕府が無血開城したときに失われる程度の士風なのであれば最初から存在していなかったのだろう。佐伯は、181頁で、人心風俗と精神は密接な関係にあり、前者が変わらねば後者は変わらない、と言っているが、人心風俗と精神は無関係なのではないか。むしろ精神は身体経験から形成され、人心風俗といった感情的なことはまた脳の別領域にある。精神は脳の表層(大脳新皮質)にあり、人心は辺縁系にある。皮質では数学論理などの先験的観念と経験による後天的観念が存在し、これは辺縁系とは関係がない。この両者を関係があるかのように言うのが日本の似非科学者である。