普通に考えても、

行政事件訴訟法みたいなシステムのように、昔自分を苦しめたシステムを好きになるはずがない。思えば、学校から受験から、われわれはあまりにも体裁と実際が違いすぎるルールに拘束された経験を持ちすぎた。国民の権利利益をまもるという美辞麗句を建前にしながら、実際は心を苦しめて意を尽くして制度に従ってようやくうまくいくというのが行政法をはじめとする強者の法であり、たとい自分が強者になったとしても、どうして昔に自分を苦しめた法を平気で行使できよう。それこそ自家撞着というものである。以前は自分を苦しめる法を憎しみをもってこき下ろしていたのに、自分が法を行使できる立場になると意を翻し、喜びと希望をもって法を歌うようになる。これでは自分をつまらない人間と言っているに等しい。また、法の目的である公共の福祉の質も問題である。ただ家畜のように身体だけは健康に養われ、精神の方は行政や資本家の搾取対象として隷従しているのであれば、そこには強者の恣意はあっても、真に質の高い社会はない。資本家が金を動かすために構築した法体系ほど空寒いものはない。そこでは国民はただ精神をほしいままに利用され資本家の養分にされるにすぎない。後に残るのは文化でも高尚な精神でもなく全てが死に絶えた墓地である。それにもかかわらず、この国の資本家および無数の専門家は、この最悪の国があたかも最善の国であると錯覚させる呪物を次々に製作し、国民を性的錯誤に陥らせ、納得している。分かりやすくいえば、たんに性的に満足しているにすぎないのに精妙な呪物により理知的に満足していると勘違いさせているのだ。卑近な例を言えば、日本で働いている者は、労働権とか勤労権の行使を喜んでいるのではない。半ばは暴力であり、半ばは金銭であり、半ばは工夫された労働環境の心地よさである。つまり仕方がないとか気持ちがよいという理由で働いているのに、「俺は働いているのだぞ」と威張り腐る。人と人との関係において誠実な体裁を維持しなければならないのは、ひっきょう、ピストルが怖いからである。下手なことを言って相手から弱点をつかれるのが怖い。したがって、必死で相手の悪口の封じ込めを図り、与し易しと分かれば自分の恣意を押し通してあやしまない。これが日本人の本質である。何よりも問題なのは、これでもかと理性を歌いながら、結局は性的満足を図っている日本人の卑劣さ、惨めさである。このような頭の使い方をした民族は、世界史上、日本人をおいてほかにない。貧乏で資源がないから仕方がないと言いつつ、その犯罪性向に理性がブレーキをかけた形跡がない。このように、理性は便法や嘘でよく、食料の確保や不快感の排除といった性的生活の満足が第一義にあるようなエゴイスティックな社会では、何の価値もないどころか、邪悪な社会であることは明白である。それでもなお自己正当化を図ろうとしている一群の人々の考え方はまったくもって理解できない。すでに自己正当化が図れないほど本質が暴露されていること、よって自己正当化の機能も極限まで希釈されていること、そもそも自己正当化を終始してきたこれまでの歴史を振り返ってみずからの醜悪さに絶望し、せめて「自己正当化をすることをやめる」という境地に達することが大切ではあるまいか。所詮われわれは使えるものを全て使って性生活の満足を最大化しようとする組織犯罪のメンバーである。しかし、組織犯罪者で、犯罪欲求の満足しか目標にしていないのに、自主憲法とか人権を歌うのは、まったくもって「ひとのみち」にもとることである。組織犯罪者でも、組織犯罪であることを明らかにしている団体は、こんにちでも国際社会に多く見られ、刑罰に服することはあっても、ことあらためて深刻な存在とはみられない。そういう者は出てきても仕方がないからである。しかし、膨大かつ複雑に自主憲法や人権を歌いながら、世界中のどの犯罪組織よりも邪悪な犯罪活動を日々遂行している団体は、もはや国際社会全体のひんしゅくを買い、人類史上最も恥ずべきギネス級の凶悪犯と言ってよい。たとえ組織犯罪者であっても、最低限、この膨大な嘘を止め、国際社会から著しいひんしゅくを買わない線までの回復を図ることが重要である。その最低限の回復すら図れないところ、むしろますます後退の度合いを深めている日本の現状が、日本人が何ら成長していないどころか、ますます原始化しようとしている日本のリアルを照らし出しているのである。そもそも、日本に正しいことなどないのである。日ごろ従っている社会通念は、悟道のこもった真理などではありえない。たんに強者の恣意をおおいかくすいちじくの葉にすぎない。そういうものを深い真理のごとくに錯覚し、子供をはじめとする弱者に押し付けるごときは、たんなる暴力の言い換えに過ぎない。そうしてみると、いわゆる教育行政なるものがいかに邪悪であるかは一目瞭然である。いかにも正しそうなことを教科書として大学教授に執筆させ、子供を長年騙してすましている。はなはだしきは、後でみんなで笑うためのギャグだという。これでは真面目に勉強したものは報われない。ひっきょうするところ、法律とは一部の官僚のおもいつきである。多くの国民が、一部の者のおもいつきで動いて人生がうまくゆくというのは、たんなる原始的な信仰に過ぎない。官僚たちは、それでも日本には神様がいるかのような趣きを醸し出そうとするが、そんなものは居ないのである。また、子どもからしてみれば、一種の催眠状態にあるから、日本に神様がいると思っても仕方がない。日本中で暴動が起きないのも、そのためである。人に催眠をかけて操るのは詐欺や強要に当たるが、そのような詐欺師を褒め称える日本人の犯罪性向の根深さはもはや手に負えない。むしろ、子どもは学習によっていつかは合理的な人間になることを目標にしているのだから、学習途中で自分が合理的な人間でなくても、あやしむことはない。しかし、16年の教育課程自体が実は合理的な人間を作り出す趣旨のものではないというところまでは、とうてい想像できるものではない。道徳の低い日本社会で人々に法律を守らせるためには、もちろん教育の力もある。しかし結局は、法律を守ることは自分の利益を守ることもであることを国民に理解させる法律の構造と経験の問題である。それをしないで、日本人を秩序に従わせるのは、土台無理な話である。日本という国は、道徳も倫理ももとからない、最悪な地獄の社会である。そのような国に秩序をもたらすことは、結局はたんなる暴力の秩序でしかない。そして生活の知恵といっても、それはただ必死に生きているだけのことである。したがって、日本に秩序をもたらすとは、結局のところ、いかに呪うことで感情の妥協調節を図るかという問題に帰着する。そして、それ以上のことを日本人に期待するのは、現実的平均的には、ほとんど不可能に近いのである。そもそも、戦後、いや明治維新のはじめから、日本はこの島に何の文化も創る気はなかったのである。戦後における社会保障制度のように、健康で文化的な最低限度の生活を保障するといいながら、実際には動物的生存すら危うい低い線に押さえられているのが現状である。社会保障法とりわけ生活保護法は、文面は学者が世間から遊離した研究室で書いたような立派な文言でしつらえられているが、実質的な仕組みは、さんざん働き先を探して、どうしても働けないという場合に、お上に頭を下げて最低限の扶助を受けるものである。子ども目に見て法の体裁から受ける印象と、運用の実際が、ここまで乖離しているルールは、日本独自のものである。体裁から受ける印象と、実態が180度違うという事実に対して、誰もわるいと思っていない。それどころか、賢いと思い、それを賞賛する向きさえある。つくづく犯罪者の国だ。また、これだけ立派な文面でありながら、実質は上からの恩恵的事業という性格をもつので、予算の枠内で救済してやるという思考が抜け切らず、予算がなければお上の都合でいつでも保護を中止できるという仕組みを持っている。また生活保護を受けていると「遊んでいるくせに」と言われたり、魚をぶら下げて帰ってくると「保護を受けているくせに、ぜいたくだ」と言われる。こうして周囲の厳しい監視の目に囲まれて小さくなっておどおど暮らさねばならないとしたら、人間らしい生活を放棄したも同然である。このような行政の反憲法的な考え方は、生活保護行政のあらゆる面を貫いているだけでなく、行政一般を超えて、会社や流行にも見られ、結局はこれを同じ心理構造が、日本人の心のあらゆるレベル、階層において存在している。