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教育現場でもかなり秘密にされていることだが、文系の試験のうち主観式(文で書く奴)は、出題者の期待を読み取るのがすべてと思ってよい。ぶっちゃけて言うと、先生が読んで気持ち良いかどうか。私は体制に従順でなく、上の期待に沿うのが嫌なので、主観式はすべて不得手。点数が取れた試験は、答えが一つに定まる理系科目か、文系でも語句だけを記せば良い客観式だった。文章で書く奴はたいていだめ。上を怒らせるような独特なことを書いてしまうためである。あるいは上の期待を外してしまう。だから加点がされない。小論文試験はうまくいったことがない。このブログを読めば分かるように、独特すぎるから、不愉快極まりないのだろう。だがこちらとしては、今でも小論文試験は思想チェック試験だから憲法違反だと思っている。東大前期のときは、節を屈して、何ヶ月か、完全に上が期待するような頭にした。あれは相当苦痛だった。出題趣旨をつかみ、気持ちのよいキーワードを思い出すように努める。文系の試験は、何を書こうが、体制に都合の良いことを書かなければ点が出ない。あんなものが試験として通っているのは誰が見てもおかしい。
よい子と言うのは、したり顔で座右の銘を挙げたり、火中の栗は拾わない的な「スマートな」考えを披露するなど、表面的には色々賢そうなことを言うが、彼ら彼女らの念頭にあるのは常に「上に逆らっても勝てないという諦め」「自分だけはうまく生きたいという保身意識」だけである。よい子が持っている座右の銘などは、すべてその為のものである。表面上はきらびやかな座右の銘で着飾っているけれども、それをぜんぶひっかぺがせば、あるのは、奴隷意識と保身意識だけだ。誰も革命心や遊び心を本気で持っていないし、だからこんなつまらない国に堕したわけである。そう言って聞かせたところで、自分が壊れるから、どうせ理解しようとしないのだろう。
憲法判例などを読んでいると、いちいち怒りを禁じえない。なぜなら、どうみても不合理なことが、堂々と憲法解釈などとして発表されているからである。たとえば、昭和女子大事件の判断などを見ると、憲法的な解釈として「学生は建学の精神に基づき入学するものであるから」などと書いてある。はあ?何が建学の精神だ。われわれは訳も分からず受験勉強をさせられ、偏差値輪切りで無理矢理どこかの大学に詰め込まれるんじゃないか。建学の精神などいちいちみて入学する奴がどこにいるか。日本の世間に横たわっている「真の憲法」からすれば、「学生は親に言われるがままに専ら高校三年次の模擬試験偏差値を基準として適当な大学に入学し」が正解である。その無理矢理詰め込まされた大学でちょっと政治活動をすれば退学処分で、しかも裁判で争っても勝てないとは一体どういうことだ。完全に体制の都合通りじゃないか。これで何が民主憲法か。へそが茶を沸かす。
憲法典のような、国政の基本を定め、人々の人生を左右する法が、これほどにも現実的妥当性を欠いているのは、致命的な背理である。ルールは妥当性を欠いていても、運用の段階でつじつまを合わせようとする配慮があればまだみていられるが、昭和女子大事件の判断のごとき、まったく体制の恣意としか思えない。学生の置かれた現実的立場を考慮せず、専ら似非憲法の文言を形式的に適用しただけの幼稚極まりないものであって、法とはその国そのものだという格言からすれば、こんなものがまかり通っているのは、日本が致命的に終わっている証左だろう。