目的追求的人間では規範と事実が混在しているといった人がいるが、これは規範を認識と考える立場の人にしか意味が通じない。規範を実在と考える場合、規範と事実が混在しているのはただの矛盾である。規範があくまで認識だと思っていれば、事実と混在しても、おかしくない。それは目的に統合されているからである。要するに法を政治の道具と考えているかどうかである。私は、法というのは政治の結果をまとめていって出来る客観的な実在であり、政治の道具ではなく、政治の結果できた建築物であり、以後絶対的に適用されていくものだとみてきた。これは数学や自然科学になじむ人には当然ではないかと思うし、法を実在ではなく認識と考えるのはかなり技巧的であって、普通、法というときは、実在なのではないか。しかし日本ではこれは少数派であり、多数派は、法を名目とみて、政治の手段だと思っている。法が名目であり所詮は政治の道具にすぎない、と言う考え方が日本になじむのは歴史を見れば明らかだが、私はいわば「嘘は政治の道具」とみるこの即物的思考が受け入れられないだけの話であり、最後は、思想対立に帰着する。このような思想対立は、そもそも法テクストにおいて様々な解釈を許容する認識論的法律観においては処理が可能だが、絶対的な視点を求める実在論的法律観においては処理不可能である。つまり絶対的なものを認めるのだから、それを採用したら後は喧嘩のみである。法律についてのパースペクティブがそもそも異なるのだから、トレランスの問題にもならないのである。