近所で母親がこどもを怒鳴る声で目が覚める。こどもがなかなか言うことを聞かなくて母親がキレているのである。
これもなんだかアホだなあと思う。こどもとはカオスである。脳に秩序が立っていない。おかげで何でもやる。一方、母親は、勉強する方かどうか知らないが、ともかく25年以上は生きてきている。おかげで脳がすっかり秩序立っている。この秩序が、無秩序に怒る。いわば秩序と無秩序の対話。ここまでは気持ちは分かるが、もっと方法を考えたらどうか。
そもそも、母親の方だって、25年かかってやっとものが分かってきたのである。優秀な人間だって、高校まで12年間も学ばないと脳が秩序立たない設計になっている。大学まで入れると16年。もともと、大人のような脳というのは自然界からしたらものすごく変なものである。無秩序に16年もかけて秩序を組み込むのだから、変に決まっている。子供からみたら、あほじゃないかと思うようなことを、大人は言っている。そういう記憶はだれでもあるはずである。それがいつのまにか変でなくなるのだから、宗教みたいなものだろう。
とにかく、子どもを育てるには教養が要るということだ。秩序と無秩序が対話するとき、無秩序を秩序に導くとき、どういう方法を用いればいいか、それは簡単な話ではない。殴ったり蹴ったり怒鳴り散らして、子どもがまっとうに育つはずがない。


人間は、分かっていても、ついうっかり、自分だったらこうであるという基準で相手の思考や行動を推測しがちなものであるが、実際は、相手はある事象に対してしばしば自分とは違う価値観を持っているから、こちら側から、こう感じているだろうと仮定して対話をしていっても、しばしばその予測は外れているものである。


年寄りは邪魔だ。カチンコチンに固まった固定観念を疑うことなく押し付けてくる。死ぬか無為に化せ。ここで言う年寄りとは、一般の高齢者だけでなく、個々人の中に住む年寄りも含む。