私が次の文章を書く趣旨は、社会・政治・経済の実態を明らかにし、多くの人々を啓発することにより、国民の社会的発言と政治参加を促し、もって民主主義の真の発展に資することである。

ところで、社会では「合理的」ということばが流行しているが、これには注意を要する。なぜなら、合理的合理的と連呼される割には、合理性という概念自体、かなり定義の曖昧な言葉だからである。このような定義の曖昧なことばは、振り回されることにより、えてして支配者の意図を都合よく実現できてしまうことになる。つまり、マスコミを通して支配者に都合の良い状態を「合理的である」と流布すれば、「合理的」ということばの意味内容をあまり正確に知らない一般大衆は、そうかそれが合理的なのかと安直に信じてしまい、かくして支配者の都合の良いように行動するようになってしまうのである。これではとても「民主」主義と言えないので、我々はこの「合理的」ということばについて、よく掘り下げて研究しておく必要がある。

そもそも合理的とは「理に合う様子」であるが、ここで理とは何か。これは脳を構成する要素のうち、脳の表面に発達している大脳新皮質の働きをいうものと解される。すなわち、計算可能性のことであり、コンピュータとは脳のこの部分が外に出たものと思ってよい。したがって、合理的とは、ものごとが計算通りに進むようすを言う。

確かに、この社会には計算通りにものが進む場面が少なくない。一寸先は闇である、と言いつつも、試験に受かれば大学に入れるし、会社に入って機械的に動いていれば、なぜか定年まで雇ってもらえる。その間に真面目に年金などを納めておくと、老後になってもどこかからお金が入ってくる。そしていつの間にか死ぬ。そのようなマクロな意味では、まさに人生は計算可能だというべきであろう。人生は複雑だと言いながら、誰であってもおそらくどこかの会社に入って働き、老後を送って死ぬことは確実だからである。したがって、その限りでは、合理性ということを議論するのも、意味がある。

しかし、そのマクロな構造をクリアして、さらに人生の深部に分け入っていくと、たちまち計算不可能性の闇につつまれる。たとえば、お金持ちで両親が教育家の(一見)環境の良い家に生まれたからと言って、その家の子どもが将来優秀になれるとは限らない(子どもはしばしばぐれるからである)。また、私たちは大学に入るとした場合でも、どこの大学に入れるかは計算できない。また、よい大学に入ったことが、人生を豊かにするかも、本当のところ計算できない。一流企業に入っても不確定要素のために会社がつぶれ、10年後は路頭に迷っているかもしれない。逆、自殺ギリギリのどん底にいたとしても何かのきっかけで猛烈に努力し成功するかもしれない。食費が月3万しかないから一日1000円以下で暮らすことが合理的に見えても、思い切って奮発し3000円の焼肉を食いに行ったら何かどうでも良い気分になったり鬱積したものが吹っ飛びむしろ生活が快調になったという経験はだれしもあるはずだ。

このように、理性には必ず限界があるのである。理性で考えてうまく行く部分と言うのは、人生や生活で極めて限られている。理性の限界点へじわじわ近づいていくと、しばしば理性的であったほうがよいのか、非理性的(金がないのに焼肉を食いに行くなどの決断)であったほうがよいのか、それがよく分からないが、ある確率において結果的に成功だったというような領域が存在する。さらには、まったく理性が通用せず、非理性的にふるまった方が成功するという領域も存在する。

以上のことは当然といえば当然だが、都市社会は、理性領域を傲慢に拡大してくる傾向がある。つまり、本来理性的に働かない方がよい部分までも、理性的に働かせるようなベクトルが存在するのである。たとえば、サラリーマンの計画人間などがそうである。何事も計画しようとする。手帳に、びっしり書いている。それ自体が目的になってしまっているのである(そして計画はしばしば破綻する)。つまり、長期の仕事のように、もともと計画できないものを無理に計画しようとする人が都市では増えるのである。そのような現象はすべて「世の中は計算可能だ」=「合理的なのだ」という盲信から来ている。しかし、そもそも人生や生活に、計画できるような単純な合理性はない。実はこれらのことは数学的にも証明されていることなのだ。つまり、近年になって、数学でも「式は立っているが理性で予測ができない」という領域の存在が明らかになってきた(初期の値がすこし違うだけで結果が全く変わる、周期性がない、などの特徴がある)。これはつまり人生や生活と同じである。自然科学的にはなんらかの因果関係があるのだろうが、頭ではまったく予測できない領域が確実に存在するのである。その領域までの「計算」しようとしたら、それは失敗するに決まっているのである。

したがって、マスコミの情報には注意深くあるべきである。テレビ、新聞、雑誌、ラジオ、インターネットなどの各種マスコミは、計算できないものを計算できるかのように言いふらし、常に大衆を彼らに都合のよいように行動させようとしてくる。彼らはしばしば「〜しなきゃ損」とか「〜すると幸せになれる」などの単純な図式を大衆の頭に植え付け、その結果、大衆をその通りに行動させようとする。「〜しなきゃ損」とか「〜すると幸せになれる」と流しておけば、消費行動に影響があることが調査結果に如実に出るからこそ、あのようなメディア操作が絶えないのだ。すなわち、これだけ啓蒙されたといっても、大衆の中には、この程度の操作に操られる人々がまだまだ数多く存在する。これを限りなく0に近づけていくことが重要である。