現実の体系

数学ばかりしていた時期は、社会のことに無関心だったので、この社会に実は自由も無いことにさえ気づかなかったのだが、最近だんだん分かってきたのは、日本は自由の名で管理をしているずるい社会だと言うことだった。実はこれは全部管理されているのである。権利といって権利はなく(権利の濫用というふしぎなことばで権利を否定する)、学校といって学校ではなく、資本主義といって資本主義ではなく、自由契約と言って自由契約ではない(たとえば就職)、大学と言って大学でなく、犯罪と言って犯罪でないし、家庭といって家庭でなく、親子と言って親子でなく、生きていると言って生きていない。つまり言葉は象徴で、解釈で別の仕組みを構築しているのである。だまされていたというより、詳しい解釈を知らされていなかっただけである。この象徴の体系はそのまま解釈することもできるので、特に社会に用事の無い女子どもや自然科学者は、額面どおり解釈している。詳しい解釈=現実、など知るわけが無い。子どもの頃から気づいていた、というのは、作った話か、もしくはよほど政治的嗅覚の鋭い特殊な子どもだけだろう。実際大半は騙されているのである。

そもそも日本の社会は神学的言語体系をなしている。したがって、社会は神学的言語体系であるべきではない、という思想を根本的に排除している。簡単に言えば、ウソは要らないから直接言え、という思想を否定している。また、日本の社会は完璧な神学的言語体系の構築をもって満足し、それに従う身体性の改善をなんら期していない。日本の社会は観念的な神学的言語体系の維持と回転のみを目的とし、それに当たる人間を疎外している。この体系を走らせられるなら人間はどれでもいい、代替可能である、と考えているのである。その意味で、人間が芯から成長するとか、芯から対話をして本当の思想を育成するという思想も否定している。今、私がこうして書いている言語自体がすでに私の経験と切り離された神学的言語体系である。このような言語体系はおそらく大学の中の社会学などの領域で通用する神話として存在する。このような形式をとるからかろうじて社会に通用するのであって、直裁に「日本人はウソでクズでゴキブリだ」という要旨を述べれば、誰もついてこないだろう。なぜなら、「日本人はウソでクズでゴキブリだ」という言語連関が公認された神話的体系の中にないか忌避されているからである。ポイントは神学的言語体系の中で公認されているかどうかである。いわば中世の教皇が認めた言葉かどうかである。

私の社会観は、昔から、神学的言語体系支配ではなく、社会の実態に即し社会的機能を旨として規則を明文化するか、もしくは、本当に追うべき理想規範を構築して実際にそれを追求する形の社会であった。これらの価値観はそもそも神学性を否定するのであるから、日本社会の言語体系と本質的には矛盾する。日本社会自体がアンチテーゼなのである。今は仕方なく神学的言語に屈服してこうして整形された言語で書いているが、本当はこんなことは「日本人はウソでクズでゴキブリだ」といえばすむのである。しかしそれが通用しないから、仕方なく、社会の神学的言語体系の中において、馬鹿馬鹿しいと思いつつも、何とか私の社会観を間接的に説明する構成を探っているのである。神学的言語体系とは不思議なことに神学性を否定する人生観もなんとなく説明できてしまう柔構造を持っている。神学性を否定する価値観を語るのに神学的構成を用いなければならないのが根本矛盾だが、しかし、この形式をとらないと神学性を否定する価値観も訴えられないほど社会は神学的言語体系に支配されているのである。

そういうわけで、私は神話を嫌悪しつつも、神話の中にそれを説明する構成を探求するという矛盾を強いられている。これはどうみても矛盾というほかないから、言い訳はできない。社会は客観的に矛盾をしており、たんに私が犠牲になっているだけである。なぜ神話を毛嫌いしつつ、結局は神話に拠るしか社会にメッセージも発信できないのか。これはたんなる圧制に他ならない。私は損をし犠牲を払ってまでこんなことをしているのである。私は昔からブログを書いたりしてきたが、あれはすべて神話的構成をとらない身体性の声であった。しかし構成をとらないがゆえに誰にも伝わっていなかった。大人は神話的に公認された構成による言語しか採用しない。生きた身体から発せられていた諸々の言葉を、神が抹殺していたというのが真相である。そうやって神の秩序は生き守られたが、そのために抹殺された無数の身体の声や生命は返らないわけである。日本の実体は、神のジェノサイドとクレンシングの上に成り立つコンビニや消費社会などの低俗な社会である。犠牲にされているものは巧妙に隠蔽し、社会からみえるところだけ極度な秩序を保っている、というだけの話である。