権利の濫用と法的安定性

「ドイツ民法では、他人を害する目的のみから権利行使をする場合(これをシカーネ(Schikane)という)を権利濫用として禁止している(ドイツ民法226条)のに対して、わが国の権利濫用は、そのような限定的な立場をとっておらず、広く客観的な判断から権利濫用を禁止している。」(民法総則・第7版・四宮、能見著・P17)。日本法における権利濫用に関する民法1条3項は、「権利の濫用は、これを許さない」と記しているだけで、ドイツ民法の規定ぶりと比較すると、話にならないほど意味不明なのであるが、一応、同条同項に関し具体的意味内容を示している判例として「所有権の侵害があっても、それによる損失の程度がいうに足りないほど軽微であり、しかもこれを除去するのに 莫大の費用を要する場合に、第三者が不当な利得を企図し、別段の必要がないのに侵害に係る物件を買収し、所有者として侵害の除去を請求することは、社会観念上所有権の目的に違背し、その機能として許されるべき範囲を超脱するものであって、権利の濫用になる。 (大判昭10・10・5民集一四・一九六五)」がある。内容を読むと、非常に膠着的で一見よく分からないのだが、分析すると、要するに、私権行使の利益と社会公共の利益のバランシング(客観的要件)および権利行使の害意(シカーネに相当、主観的要件)が権利濫用の要件になっていると分かる。この点、権利行使の害意については、その意味内容は明確であるが、前者の客観的要件はどういうことか。これは、私権行使の利益と公益性をてんびんにかけて、公益性を保護すべき場合に権利濫用として私権行使を封じるという考え方なのだが、私権行使の利益と公益性をてんびんにかけるというのが意味不明である。一体、私権行使の利益と公益性というような、極めて抽象的で漠然とした要素の塊を、どうやれば「客観的な形で」比較考量できるというのだろうか。確かに、要素がより具体的で、しかも要素の数が少なく、それを比較考量しても客観性を失わないような場合には、比較考量という理論も、安定性のあるルールとして採用できないではない。しかし、ここで問題になっているのは、私権行使の利益と公益性という抽象的な複合概念であり、そのような複雑な概念をてんびんにかけるという行為は、もはや「客観的」利益考量ではなく、解釈者による「裸の利益考量」である。そのような意味で、論理性を重んじるドイツ民法の226条は、意味内容が明確なシカーネのみを禁止し、私益性を公益性を比較考量するような漠然とした方法論は放棄していると考えられるが(不明確と思えば、妥当性を欠いてでもその思考を放棄する態度こそ、国民主権にかなう。ドイツの思考法は高く評価されるべきである)、日本法は具体的妥当性の確保に走り、私益と公益のバランシングを「客観的要件」などと牽強付会して法的安定性をないがしろにしている。「法的な安定性」とはどういうことであるか、それが自由民主主義にとってどのように寄与するかということを考えた形跡が全くない。また、洗練させようという動きもない。日本法のこのような態度こそ、まさに日本法が「国家による支配のための(方)法」であり、国民主権実現のための法ではないことの現われである。