私は若いころは全然知らなかったのですが、ブログ制度って要するにガス抜きと宣伝で用意されていたんですね。つまり、書きたいだけ書かせといて誰も見ない、誰も反応しない、でも本人は鬱憤が晴れたね、明日から勉強仕事がんばってね、という趣旨でしょう。で、業者が宣伝や洗脳にめいっぱい活用する。詐欺ですよこんなもん。どこが言論民主主義なんでしょうかね。というよりあなたみたいにアルファブロガーなどの資本主義勝者が大手を振って意見を述べているスペースにすぎませんね。ばかばかしい。集合知もなにもないですよ。ついったーやチャットでもなんでもいいですが、知ではなく恥を生み出しているとしか思えない。
日本の言論権は労働の不平不満やガス抜きのために行使を許されているというのが確立した権利範疇であり、一般庶民が政治に影響を与えるほどの言論権は確立されていませんし、される兆しもありません。ブログ、ついったーなんてのは、ただのガス抜きですよ。

人権思想なんてアメリカといちゃいちゃやるために置いているだけで実質は日本式伝統が妥当しているのだから、まずそれを認めるべきである。早い話、米国から人権社会のようにみえるという趣旨が達成されれば日本は満足なんで、中身は日本式だからこそ、こういう問題が起きるのでしょ。日本式価値観を、うわああああってな具合で、人権思想で覆いかぶせて隠したのが憲法や労働基準法。人権思想は、人権思想そのものではなく、米国からの視点でみて人権社会にみさせるという趣旨で、日本式価値観の表面にかぶせている、とみれば、論理矛盾ではない。日本は人権思想の用語体系で実際は日本式を語るという虚構日本語をこの100年で編み出してきたのですよ。

「死ねばいいのに」の件ですが、まあピュアなリアリティを植えつけられている高校生がこんなこと書かれれば、欝になりますよ。つまりこれは大人の操作ミスですよ。で、なんでそこに注意を払えなかったかというと単純な余裕のなさでしょう。ネットに死ねとかなんとかという罵詈雑言をはびこらせないと全体の経済が回らない(ガス抜きで)。ゆえに自殺した高校生は経済の犠牲者でしょ。その実質をまず指摘しないと概念だけの空寒い空論になってしまいます。問題は、全体経済のために子供が死を持って犠牲者となることの可否、でしょう。実際は政治家は国策のために殺人をしています。

ちなみに本件のように「高校生は偶発的に死んだ」みたいな論理が通れば何を言ってもよいわけではなく、概念が空疎化している場合には概念は使えませんよ。暴利を得るために権利行使したり、実体のない会社をぶったててそこに責任を押し付けたり、虚偽通謀して税金逃れをするのが許されないのと一緒ですよ。本件で言えば、高校生は偶発的に死んだとは到底いえない。客観的に言えば、社会がグルーミーな子を殺したわけですから。経済のために。そもそもネットに容易に死ねなどと書かせる環境を設定していた社会の責任であるし、おそらくグルーミーな子が被害にあうかも知れぬがあってもかまわないという未必の故意はあったのでしょう。でも個人の尊厳から言うと性格がグルーミーだからといって死んでよい道理はない。いじめの問題も同じです。要するに、社会による、経済優先、個人の尊厳の無視である。問題はそこかと。

その意味でネット制度自体が、学校制度で教えられている観念を破壊する矛盾した社会装置となっている。まじめに教科書を履修したものにとって筋が通らないですよネット社会は。平気で悪口裏サイトが放置されてますし、2chなんか見放題でしょ。どうみたって社会装置同士が矛盾している。学校で純白な正義を教えておいて、学校から出していきなりネットみたいな装置をみせるのは、酷ですよ。大人なら平気でしょうが、子供が見たら自殺しますよ。リアリティの齟齬という点では隔絶してますから。高いところから一気に落とされるようなものです。この制度間格差を放置している大人が悪い。全国で子供が自殺しているのは、リアリティの矛盾によるものでしょう。

まあ要するにアメリカには人権社会のごとくみせつつ、中身は日本式でやるというこの無理のある仕組みがいろいろなものを引き裂いてますよ。くだらなすぎますよ日本。建前と本音を上手に分けるいい加減な者が得をする社会でいいんですか。教科書とか真に受けて社会に出た人がかわいそうだ。

役人という概念はすでに実態との間の実質的関連性を失っており、役人と言われているものの実態は支配者なのだから、本件の場合、役人の論理で語るのはふさわしくない。つまり、公僕は余計な仕事をするなという命題は妥当しない。わが国の役人は、事実上、全知識を有する神のごとき存在として社会全体を双肩に負っているのだから、義務範疇などなく、無限に自己裁量で国を動かせるという規範が妥当している。そうすると、日経社説がいうごとき、余計な仕事などはないであろう。これもまた底の見え透いた茶番である。こんな社説を書くだけで金がもらえるなんてひどすぎる。

要するに、わが国で役人と言われている者は、現実には学歴社会のトップとして国を請け負っているプロであって、一見明白かつ重大な非違行為でなければ責任を問われないという義務範疇が確立しており、こんなものが変わるわけがない。役人には定まった義務があるかのごときくだらぬ社説を書く新聞など読む価値があるのだろうか。素直に「今日も役人様が国を太平無事にした下さった。社会は平和です」と書いたらどうか。私はもうこの国の足の引っ張り合いと茶番にはうんざりなのだ。

中央省庁の件については、最近タクシーがどうとか、公務員改革がどうとか言われていますが、これも国民のガス抜きをするためにマスコミが作ったのでしょう。こういう虚構を作って流しておかないと国が持たないのですよ。この国はいろいろなものを欲張って詰め込みすぎていますから。

なお、日本のNatur der sache(事物の本質)にかんがみれば、一生懸命勉強して数々の試験を突破し、日本列島を隅々まで管理して安定を維持している官僚が、タクシー運転手からビールをもらうくらい当たり前のことであって、むしろその程度で済んでいる事態に驚かねばならないと思います(税金でいい思いをしてもよいのは当たり前でしょう)。言い換えると、この国は別の原理に支配された正義が妥当しており、西洋から輸入して作った「個人の尊厳」に基づく正義体系は、形式だけでなんら妥当していないので、後者の体系で社会を見ると常に欺瞞的になるのでしょう。

同意されたのなら、明日からはもう少しsacheに即した議論を展開されてはどうでしょうか。たとえば、社説を見て、「まったくそのとおりだ」「少し異論はあるがおおむね同意だ」では、マスコミが垂れ流す自己追認と変わりありません。ブログが面白いかどうかは、相対的なコメントをしてすませるそこの見え透いた茶番か、それとも実質を見抜いて世間にぶつけるものか、で決まると思います。後者のものに「陰謀」などのレッテルを貼っているのではマスコミと変わりありません。

国の運営を一括請負している役人にこの程度の役得は当然であって、未だ役人に付与されている特権の範囲を出るものではない。社説はアメリカの方をむいて書いているのか。ああ、くだらない国だ。