好きなことに天真爛漫に取り組むのが人間精神の豊穣と幸福の本質と分かっていながら

社会に出ると様々な圧がかかり、事務処理に適した機械的思考しか出来なくなっていくわけですな。高島やフィーユがその典型例。彼らは日々の金稼ぎに対処すべく、鉄のごとく自分は正しいと信じこんでいるが、実態は砂漠のように枯れ切った精神世界の住人でしかないんですわ(頭頂部の砂漠化は頭蓋内の砂漠化を象徴する)。弁護士だろうと学者だろうとね。奴らは好きなものに対して見返りを求めずに取り組むことの幸福をどこで忘れたんだろうか(西洋で発展した科学のほとんどはそうした活動の産物だと思うのだが、日本の科学は無駄を出さないカリキュラムによる真似事だからなw)。まあこの国は無駄を出すのが大嫌いのようで、自然のままにさせるということができないようだ。真実は自然の中にあるというのに。余裕のない国だ。あーあ、高島やフィーユのような似非エリートって、頭の中を砂漠にしてまで、日々の事務を処理していくだけで人生終わるのかな。知性なんて完全にステレオタイプ化しているだろうし、研究といいつつやっているのは機械的な翻訳でしかないじゃん。サラリーマン的学問乙。サラリーマン学問の産物であるfiguraとimagoに支配される日本人可哀想。