自己中心主義で当然

日本の節操の無さは異常極まりない。こんな馬鹿国家に奉仕しようなんて考えないほうがいいよ。いかに貢献しないで、自己中心で生きるかだと思う。それには知能が必要なわけでね。フィーユみたいな偉そうな奴で普通なんだよ。何が道徳倫理だよ。騙してるよ。


そもそも法というのは解釈者の恣意や裸の利益考量をさせないために、無矛盾の前提を定め、そこからの一意的・論理的演繹操作により結論を導くところに価値があるのに、多義的で矛盾したものを前提とする日本法は、法として何の価値もないでしょう。また、マジックワードとごまかしに満ち溢れた法律・判例などは、学ぶ価値もないものであり、高い金を取ってまでこれを学ばせている(笑)法学部やロースクールには、恥が無いのでしょうか


日本では、自由とは、あくまで全体の価値判断の中において考慮されるにすぎず、自由を社会的価値の基底としているのではないですよ。公共の福祉という価値が自由という価値をその要素として一定程度認めるという関係にあるのです(憲法12条。自由を認めないと、社会が窒息し、公共の福祉に反するからですね)。で、どの程度自由を認めるかは、その時代の公共の福祉次第であり、場合によっては、自由を極度に制限することにもなります。それがみんなの幸せになると判断されるからです。これは、自由というのを確固として認め、国家はそれを守るという論理ではなく、公共の福祉の中で自由を相対的に認めているわけですから、憲法第三章のように、人権の論理を認めているかのごとくかくのは誤りなのです。なぜこういう矛盾を犯してまでこんな憲法を置いているかというと、アメリカとの関係が有るからとしか思えません。日本社会の矛盾は全部ここに出ているのです。法律はドグマーティクとしても成立していないのですから、話になりません。法曹はこの点を必死で隠しているのです。


日本で影響力を持つ言葉は、そのときの政治家の都合との間に強固な合理的関連性のある言葉である。たとえば、戦前は「戦争に行かない者は非国民だ」という言葉がものすごい意味を持った。しかし、今は「戦争なんかしても意味はない」である。その代わりに「お金」「学歴」「人脈」「コネ」「日本は終わりだから官僚になるのが一番」といった単語が最強の意味を持つ。子どもは「学歴取得」のために頑張り(ついでに人を騙す知恵を身につけ)、大学で「人脈」と「コネ」を作って、社会に出たら「お金」を稼ぐか「公務員になって」幸せになる、という図式である。社会に魂が無くなって形式合理性しかなくなったから、こんなことしかいえないのだろう。何が言いたいかというと、日本ほどくだらない国は無いということだ。そういうことをいっても、上層部は「それがどうした」としか言わない。


「東大」という言葉は多義的であり、内部的には矛盾だらけなのは、法概念と同じです。この言葉は、高校生以下には目指すべきところという指標を与え、大学生には羨望の対象とさせ、社会人には日本の大黒柱として尊崇させる対象とさせ、一般国民には「頭がいい人がいるところ」というイメージを与え、他方で、東大に調子に乗らせないようにするため、東大でも仕事ができない奴はなんとかとか、無職はなんとかとか、また、東大卒が殺されないように保護するため、社会に出ると東大卒はただの会社員や公務員を名乗る義務が課されます。まあこのように東大という概念について、様々な目に見えない細則が設けられていて、その統合体が東大なのです。実態の東大とは全然別のものにもかかわらず、社会的にはこのように様々な意味が付与されるというわけです。ですから、問題は東大なのではなくて、これに意味付与する官僚マスコミといった政治家の意思であり、要は、意味付与の権力を有した政官財トライアングルこそが日本の実権です。しかし、この実権の内実が非常にくだらないため、失望するのでしょう。日本ではどんなに素質があっても政治家の都合に合致しないと「頭が良い」とか社会的に引き立てられる、ということはありませんから、終わっています。たとえば私やあかとり777氏は、自然的本源的価値において優秀であるにもかかわらず、目に見えない細則が自然的正義を押しのけて意味付与する空間では、馬鹿扱いなのです。