文の彩に支配される馬鹿国民

なぜ「東大」とか「学歴」という言葉が強烈かというと、現時点において、これらが無数の社会的価値を担わされており、要するに手に入れれば美味しいからです。人は、政治家が定義した概念において、自分にとって美味しいものにしかみていません。論理ではなくて、言葉をみているのです。文章において、論理は流し読みし、その中から言葉だけに反応し、そして自分流に解釈して一喜一憂しています。馬鹿なのです。


ブログやついったーの発言を見ていると、Mansukeはただの実務馬鹿だな。必要以上にしゃべると理論面での馬鹿が露呈するので、制限をしているのだろう。そもそも知識の独占による支配と対話不在の社会がすでにおかしいわけだが、そういうのも理解できないくらい真理に対するセンスがないのだろう。典型的な日本の農民。


本質的に私利私欲で勉強している人間というのは、試験が終わったら内容を全部忘れるし、その内容について反芻して自分のものにしようとしない。とくに日本人は飲み込んでは吐き出すことを繰り返しているだけだからなおさらだ。日本人は、結果を得るために勉強しており、勉強したものを自分のものにするという気がそもそもない。しかし、私の場合、内容を忘れずに絶えず点検しているし、数学に関しては研鑽を積んで発展させている。そのように、自分のものにしていく態度は、ずっと後年になって意味を持ってくると思うが、さし当たっての金稼ぎなどには何の意味も無いから苦痛だ。金稼ぎなんていうのはマニュアルにそって機械作動するだけで、気合を入れたり、気を利かせたりしても、あまり意味は無い。むしろ最善の定型動作をマスターしてそれを毎回繰り返せれば十分である。

Mansukeが、官僚は政治家が「話を聞いていない」と言ったらデッドロックに陥ると言ったが、実際上は、政治家はいつでもそういうことができるわけではなく、むしろ官僚の計画に乗る方が得になることが多いので、官僚の指導に従うことが多い。また、お上というのは、あまり突き放しているとストレスがたまるらしく、しまいには荒唐無稽な芝居を打ってでも目的を達成しようとしてくる。事実のでっち上げなどである。主体が検察などになると、理屈は通用しない。法律も完全に裁量になっており、理屈の持ち出しようがないのである(公訴は検察の裁量)。これが政治家や官僚ならばともかく、民間人の場合は、簡単に操られる。なぜかというと、民間や政治家は一枚岩ではなく、結局は官僚的要素を持っているから、お上の一喝にはなかなか逆らえないのである。自分も日頃同じことをしているから、である(たとえば大学の教授は、官僚との関係では民間人だが、学内では官僚の如く威張り腐っている)。また、最近は自由経済などというが、これは言葉のあやであり、実際はそんなものはなく、民間大企業なども半ば官僚的に運営されており、自由経済の論理など通用しない。そもそも、会社法の規定をみれば明らかである。あれを作っているのは結局官僚であり、あれをどうみたら日本が自由経済と思えるのか理解できない。確かに昔よりは、規制緩和で部分的に個人の経済権が拡大されたかもしれないが、それは微妙な量においてであり、昔あった規制が完全になくなったとかそういう話ではない。しかも最近では、終末感もはなはだしいものがあり、これ以上はどうもこうもならないところまできているのではないか。


しろうとには教えられていませんが、法律はいたるところで矛盾しているのですよ。憲法から始まって、民法、労働法、消費者法、経済法など、ほとんど全部矛盾しています。たとえば、民法の強行規定などは、そのほとんどが経済の自由を侵していますし(濫用を禁止する趣旨のものを除く)、労働法や独禁法では、経営者の経済の自由を侵しています。ですから、日本の法律は、はっきりいって話になっていないし、法としても雑すぎて価値がなく、検討したり勉強するに値しないゴミなのです。判例なんかみたって、最高裁の馬鹿判事の戯言と玉虫色の結論しか書かれていないので、いつになっても理解できません。そこには論理が存在しないから当たり前です。官僚や馬鹿判事が「合理的」と思った結論が法になるんだから、終わっています。こんなものを真面目に覚えるのは、人生をどぶに捨てるようなものです。司法試験なんかで、下の方の法律をいくら覚えようが、上でそれらを統一している価値が矛盾して破綻しているんですから、無意味なのです。