違法収集証拠の取り扱い

について、最高裁は、直接の規定がなく、刑訴法の解釈に委ねられているとし、刑訴法1条を敷衍して、将来の違法捜査の抑止の見地を導き出し、この観点から不相当と認められる証拠についてはその証拠能力を否定するとしている。この解釈は、そもそも規定を欠いているのに、趣旨からむりやり規定を作り出している点で、司法の立法としか思われない。趣旨から敷衍してくる解釈は文学的には正しいように思えるが、規定にないルールを裁判所の裁量で作り出されると、ルールの名宛人である国民にとっては予測可能性がなくなる。つまり、法の基本原則である予測可能性の確保の観点を完全に度外視しているわけである。また、「〜の観点から相当かどうか」という判断基準もあいまいであり(観点から相当とはどういうことか、学校では抽象的ではなく具体的であれと教わったが、肝心の国家機関がその愚を犯しているという矛盾)、とてもルールとは思えない。たしかに法律には裁量が不可避なのであるが、それは本当に裁量にゆだねざるを得ないかどうかについてヨリ厳密な吟味が必要であるところ、日本の法律の場合、その吟味をせずに、都合に合わせて裁量任せにしている感がある(その最たるものは検察の起訴裁量権)。このような行き過ぎた裁量法制は、憲法上の何らかの原則に照らして違憲とすべきなのだが(例えば適正手続き違反)、最高裁は判断を回避したり、判断をしても稚拙な論理でごまかしたり(最高裁の稚拙な論理を攻撃する途は手続法上遮断されている)、国民は無関心といった次第で、真の正義の点からするとめちゃくちゃな法律がずっと放置されているのである(立法府が立法したものが正義だという法実証主義が究極の原因)。そして、このようないい加減な法律が違法捜査や国策逮捕、冤罪を可能としているというのに、なぜ誰も改善しようとしないのだろうか。