最高裁の考え方

お上が社会のことを決めており、自分たちが観念している社会通念に基づいて裁量で結論を決められるという前提がある。そしてその結論を適当な規定に根拠付ければいいだけの話。その根拠付けは、よほど無理なものでない限り、不当なものでも通用してしまう(最高裁が不当な法解釈をしたという理由で再審請求をすることはできない。不当な理由付けでもそれで確定してしまう)。その例が、職務質問に付随する所持品検査の許否の最高裁判断である。「所持品検査は犯罪防止目的にとって有効な手段であり、職務質問を行う際、口頭で質問するのみならず、所持品検査を行うことができるのであれば、職務質問の目的たる犯罪防止効果はいっそう増大するから、職務質問に付随して所持品検査を行うことができる場合がある」という欲張りな結果論が先にあり、警職法2条1項を根拠に許されるとする。しかし、警職法2条1項は、「警察官は、異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して何らかの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者又は既に行われた犯罪について、若しくは犯罪が行われようとしていることについて知つていると認められる者を停止させて質問することができる。」としか書いておらず、これに所持品検査の根拠を求めるというのは無理筋である。そもそも、立法のさいに抽象的な語句をちりばめて法律が作られており、これをあいまい不明として違憲とする判断も出ていないので、理屈はどこにでもついてしまう。まあ判決書など茶番なのである。本物の法律というのは、限界が明確・明晰で、「相当」「実質」「合理的」「社会通念」などという語句など使ってはいけないのであるが、こういうものが堂々と使われている日本法は、法律の役目を放棄しているということだろう。

要するに

お上が歴史的に形成してきた結論が日本法であり、その理由付けに使っている法体系の方はガラクタであるというわけである。つまり、日本法は、憲法の論理にしたがって修正・改善されていくのではなく、背後の都合だけで揺れ動いている。たとえば、最高裁は絶対に、憲法31条を根拠にして抽象的な語句の使用を違憲としないだろう。なぜならその結論を許すと、お上の裁量を封じ込めることになってしまうからである。お上の裁量というのは現代日本の命となっている以上、最高裁自身がそこを自ら封鎖するようなことはありえない。憲法の理論からいうと、違憲として当然なのであるが、日本の論理は憲法理論ではなく、お上の都合だからこういうことになるわけだ。要するに、学問上の議論はほとんど無駄であり、学者は何の生産性もないことで飯を食っていることになる。