賭博罪の憲法判例に見る日本憲法の本質

賭博行為は、一面互に自己の財物を自己の好むところに投ずるだけであつて、他人の財産権をその意に反して侵害するものではなく、従つて、一見各人に任かされた自由行為に属し罪悪と称するに足りないようにも見えるが、しかし、他面勤労その他正当な原因に因るのでなく、単なる偶然の事情に因り財物の獲得を僥倖せんと相争うがごときは、国民をして怠惰浪費の弊風を生ぜしめ、健康で文化的な社会の基礎を成す勤労の美風(憲法二七条一項参照)を害するばかりでなく、甚だしきは暴行、脅迫、殺傷、強窃盗その他の副次的犯罪を誘発し又は国民経済の機能に重大な障害を与える恐れすらあるのである。これわが国においては一時の娯楽に供する物を賭した場合の外単なる賭博でもこれを犯罪としその他常習賭博、賭場開張等又は富籖に関する行為を罰する所以であつて、これ等の行為は畢竟公益に関する犯罪中の風俗を害する罪であり(旧刑法第二篇第六章参照)、新憲法にいわゆる公共の福祉に反するものといわなければならない。

S25.11.22大法廷判決・昭和25(れ)280 賭場開張図利(刑集第4巻11号2380頁)



この説示から窺われることは、我が国においては、自由というものは公共の福祉という別の価値と妥協できる限りにおいて認められるものであって、自由の論理からは可能なようにみえても、その自由の結果が公共の福祉という価値を著しく害する場合には自重せよ、ということである。すなわち、憲法の根底にある価値観は、その時代の現実の下における個と全体の妥協であって、俗説にいうように、憲法が自由や人権を認めているとか、公共の福祉は自由の限界概念だ、ということでは全然ないことが分かる。日本の憲法とは、最高裁が裁量で現実的妥協点をさぐり、それを判断するものであり、日本の法律とは、官僚というお上が妥協点を探って定めたものにすぎないというわけである。そこには、特定の正義の論理が一貫しているのではなくて、複数の正義が単に現実の下に妥協しているのみである。それは、普通であれば法ではなくて政治状況にすぎないのだが、日本の憲法の場合、政治状況をそのまま強引に法とし、一般的・抽象的・多義的な文言を多用して矛盾を糊塗し、誤魔化した、矛盾とマジックの一大集塊ということができる。これに対して、学説では、公共の福祉とは人権の内在的制約であるとか(どうみてもただの強弁であり、論理的に成立していない)、確実な合憲性判定基準が存在する、などと言われているが、憲法および判例の実態にまったくそぐわないものであり、耳を傾ける必要はない。なによりも、実際の最高裁判例にこそ、憲法と我が国社会の実相が露呈しているのであって、これこそが現実的な論拠である。そして、冒頭の判例にみるように、日本憲法の実相とは、複数の正義の現実具体的妥協の一言につき、それ以外に確固とした正義の理路は一切見られないのである。日本の正義とは、あえていえば現実であり、それもお上やその筋の主観で決まる現実である。したがって、憲法の本質は、人権と公共の福祉の妥協、つまり、完全に政治的ではないが、公共の福祉という概念が漠然としているため、限りなく政治に近いといえる。しかし、人権と公共の福祉が妥協している状態が「正義」であるという論など聞いたことがないし、とうてい万人が納得する基準ではない。すなわち、その基準の下に構成された法律には、万人説得性がない。こんなものは法律として失格である。