「国は公務員の職務につきその安全を配慮する義務を負っている」

1975年の最高裁第三小法廷判決が、国は公務員の職務につきその安全を配慮する義務を負っている、と明言した。これはどういう意味があるかというと、そもそもお上は公務員というシステムを設置しているのであるが、そのシステムのトップである大臣は、部下である公務員が勤務するについて、事故が無いように配慮せよということであり、その配慮を欠いたことが明らかな場合は、その公務員に賠償しなければならない、ということである。ただ、この配慮を欠いたことが明らかという基準も、あいまいであって、そこに言葉で示されていない要素も考慮しているのであるが、ともかく、大臣は公務員を好きに使ってよいというルールから、安全に配慮しつつ使え、と考え方を変更したところに意義があり、この部分のみ日本の法と言える。判決は、その図式について、公法的勤務関係でも私法上の信義則が適用され、安全配慮義務に支配されるとか、国家公務員法93条や95条、国家公務員災害補償法、防衛庁職員給与法27条も安全配慮義務を予定しているとしているが、前者は公私混同というほかないし、後者の理由付けは、牽強付会であり、この理由付けは法としては意味を持たず、ダミーによる日本独特の判決文の修飾技法とみるべきである。つまり、この理由付けは、「国は公務員の職務につきその安全を配慮する義務を負っている」という結論を図面上に乗せるための、本質的に矛盾した作業であり、あまり見る必要は無い。また、判決は、なるべく被害者を勝訴させるために、損害賠償請求権の消滅時効を会計法30条による5年ではなく、民法167条の10年としているが、これはどうみても公私混同のご都合主義的な理由付けであり、破綻している。なぜなら、本件は国と自衛隊の公法的勤務関係であるのに、私法の民法167条が適用をみるということ自体、論理破綻だからである。消滅時効の期間を第一審判決の5年(会計法30条適用)から10年にしたのは、ほとんど恣意的なものであり、少なくとも公法的勤務関係上生じる権利の消滅時効については、わが国には確固とした基準がないといえる。いずれにしても、1975年の時点において、自衛隊の事故の事案の下で、「国は公務員の職務につきその安全を配慮する義務を負っている」というお上の一般的判断基準を示し、かつ、この被害者を勝訴させようとした部分についてのみ、法としての価値がある。ちなみにこの事件の下級審判決を見ると、一審は、会計法30条を適用して時効消滅しているから敗訴とし、2審は行政法上の特別権力関係理論を述べて損害賠償義務を否定し敗訴させている。これらは一見理論的に見えるのだが、たとえば一審では会計法30条が適用されるといっているのに、最高裁では民法167条が適用になる、とコロコロ変わるように、一審の方が正しいというわけではなく、一審を担当した裁判官が学者の理論を尊重する人間、というだけで、一審が六法の正しい解釈をしたわけではない。そもそも六法とはどういうふうにでも解釈できる小説みたいなもので、それ自体は法ではなく、法は結局、お上の仲間の中にいる、判断権を与えられている人自体、なのである。であるから、一審は二審の人に肯定され、最高裁が一、二審の人を否定した、というだけのことで、そのほかは飾りに過ぎない。こういうわけであるから、実務法の研究とは結局、お上という人自体が今現在何を考えているかという研究でしかないというお粗末なものであり、それがそのままこの国のお粗末さにつながるということだろう。