息苦しすぎる

真底クズなのに皆でクズに見えないように形だけ合図する社会ってのは本当に真底悲酸だ。何でこんなことになっているのだろう。

日本人はクズだから、東大法まで出て逮捕されちゃってざまあwwwくらいに考え、心の中で小躍りしているが、本人が目の前に来て、本当はお前の頭じゃ及びもつかないようなことをいろいろ考えた上で作戦的に逮捕されたんだよ、と言われて妄想が壊れるのが嫌だから、このブログもまともに読まないし、本人が語り出さないように会話をコントロールする。本当にクズだね。

そもそも認識の上においては日本は国民を主権者とする民主主義近代国家ということになっているが、日本に「実在」するのは天皇と官僚を中心とした広域宗教団体である。この団体が主権を有していると主張し実際に主権を有して日本列島を実効支配しているという事実からすれば、日本は実は近代的世俗的国家ではなく中世的な宗教国家である(オウム真理教が出現したのはこれを裏書する。そもそも日本国家が宗教団体であるから、その内部に類似の団体が出現しても異とするに足りない。麻原を尊崇する点や、上九一色村のサティアンやその構造、高学歴者、科学者を幹部とする組織構成などはそのまま天皇尊崇と官僚制に共通するし、隠し部屋などを作る発想も法律の知恵と類似する)。すなわち、宗教団体がその宗教規範において近代国家を装っているのである。したがって、本質論としては、日本国家の法は近代法ではなくて宗教法であり、近代法の解釈方法、すなわち17,8世紀のドイツに始まった演繹的幾何学的解釈方法や、アメリカのような社会学的解釈方法、ラズなどが析出した近代法の要件などは通用しない。日本法の解釈方法は、中世キリスト教社会における聖書のスコラスティックな解釈方法、すなわち、論理を超えた神話的解釈方法なのである。論理を超えているというのは、要するに神の規範から神学的解釈によって命題を導出し、必要な結論を得る、というものであるが、要は「神様がこのように言っていると解釈者たる私が代行して託宣する」式の思考であるから、論理性はなきに等しい。また、日本法は本質において非論理的な神話であるために、政治や社会や経済との連関を有しても矛盾とはならず(もし近代法であれば政治などと連関していればそれは論理上たんなる混同であって破綻している)、いわば政教一致なのである。なぜ現代日本法が宗教法であり、しかも文面上近代法を仮装しているかというと、その背後にある政治的事情の極度かつ変態的な反映である。直裁にいえば、日米安保を維持するために近代国家の体裁を整えておかねば国が立ち行かないという結果である。もちろん日本法の歪曲状況は、政治のみならず、経済、社会・風俗、歴史などの影響がさらに多大であり、実際はそれらの美辞麗句による言い換えにすぎない(たとえば公選法や児童買春防止法があるが、建前だけで機能はしていないし、意図的に骨抜きにしている感もあるのは、結局、公正な選挙が日本の社会風土にとって好ましくないからであるし、好色こそ人生の最大の楽しみとしている節のある日本の庶民に対して風俗を禁止するのは、大きな利害の観点からよくないと考えているからである)。日本政治のこの「くだらなさ」というのは何も今に始まったわけではなく、万葉時代からの伝統である。そもそも日本人が独自に生み出したものは、『古事記』が代表する万葉時代のおおらかな環境における平仮名ていどのものであり、その後の文化というのはすべて外国文化の輸入と変形の繰り返しに過ぎない。したがって、日本人の身体性に根付いているのは、日本語から推察されるところの雄雄しさではなくて、むしろそのような雄雄しさで装うきっかけとなった、女々しさであることは、本居宣長が鋭く指摘している。彼の言葉を借りれば、日本人の本質はたをやめぶりであり、ますらおぶりは、それを反省してとってつけたものにすぎない、というのである。そしてそのような身体性は日本の歴史を通して今日の日本にも持続しており、政治の根底にこれが潜んでいることは明らかである。また、神道の持続は本質的であり、これがそのままこの宗教国家の本質をなしている。確かにわが国には仏教や儒教も導入されたが、神道ほどには本質的でなく、いわば政治利用されているにすぎない。そのように複雑な歴史状況があるにせよ、その結果今日の日本社会に結晶したものといえば、すでに述べた日本法という神話である。その神話が語り、語らないところのものが現代日本の本質であり、日本の歴史の本質をすべて盛り込んでおり、この神話にのっとって語らない限り、日本を語るには的外れとなる。たとえば刑訴法248条の起訴便宜主義をとりあげれば、そもそも検察とは検非違使に起源があり、その後もずっとお上の直属機関として存在し、戦前も検事局は大審院に付属していた。そのようなものが、この形式的民主主義の社会において、真の民主国家の検察機関となるはずがなく、その政治的本質は、天皇官僚制を支える権力者にすぎないのである。そのような実態を神話的に構成すれば広範な起訴便宜主義となるのは当然であって、しかも日本人のたをやめぶりからすれば、検察官の濫用が横行するのも必然である。昨今の憲法崩壊的状況からすると、このような傾向が改まることはありえず、一般社会人が言うところの日本の現実の最悪性とはこのあたりの消息を物語るものといえる。最近の日本は社会の完成による法的神話の後退と、その反動としての江戸時代的な文化の、常識という神話の名の下における展開(テレビや2chなど)という特徴があるが、本質論としては、日本社会の根底の持続してきた土着思想が満足し、法律という名の高尚な神話が消失・崩壊傾向にあり、かわって登場した低俗文化という神話(ネット文化)の堕落性などをみるとき、いったいこの国は何をしてきたのだろうかと暗澹たる気分にならざるを得ない。


以上をまとめるとわが国の政治原理は深いエゴイズムとそれを隠蔽する意匠で構成されているが、もういい加減、脱自の方向を探ったらどうだろうか。いつまでこのくだらない土着の思想を温存するのだろう。第一、みためが近代社会で、人間の本質は土民であり、土民的エゴイストが近代市民の顔をして生きているというのは、最悪ではなかろうか。