みんながわかるように書こう

最近はネットブームであり、ネットに様々な言論が投稿される。しかし、その言論には客観性があるのか、科学性があるのかというと、かなり怪しい。議論と呼ぶには、まだまだおおざっぱな言葉が多すぎる。おおざっぱな言葉の弊害は、多義的に解釈できることである。したがって、おおざっぱな言葉をたくさん集めれば、さまざまな結論をもっともらしく導くことができる。これではなにも述べていないのに等しい。先に結論を決めておいて、権威付けされた用語を組み合わせてその結論と結びつければよいのだから。渡辺洋三という法学者が『法というものの考え方』の中で、日本人にはまだまだおおざっぱな表現が多いことと、貧乏性による特殊日本型エゴイズムが精神の根底によこたわっていると述べている。このことから、意識するとしないとにかかわらず、自分のエゴイズムから結論が出て、それをオーソライズしただけの言論が飛び交うことは必至である。例えば私が逮捕されたとき、はてなのブコメだけでもいろいろなことが書かれたが、軒並み、東大卒が逮捕されてうれしい、ざまあみろ、という、エゴイズムが小躍りしているのが丸分かりのコメントが連続した。理由付けも乏しいもので、ブログの表面から言葉を拾い出して、自分に都合よく配列しただけのお粗末なものである。本人はもっともらしく理由付けして、自分の論の客観性が保障されていると思っているのかもしれないが、そもそも使っている言葉が多義的なのだから、そんなものを組み合わせた理由付けに客観性があるわけがない。日本における理由とは、あいまいな言葉に客観性担保機能があるという思い込みだけで成り立っている。そんなものはないといえば、それでおしまいである。私も最初は、大人が書いているのだから、本当のことを言って世間を動揺させまいといったような深い意味のある愛の構成だと寛容にみていたが、最近ではどうも、大人も相当幼稚で、言っていることもたんなるエゴイズムの帰結ではないかと思って落胆している。いずれにせよ、日本人は頭の中で理由と結論が分裂しているようだし、たんに自分のエゴイズムを神秘のヴェールで覆い隠しただけのものであり、卑怯で無意味なことであるから、猛省を促したい。