社会的機能法がすき

そもそも私は昔から嘘が嫌いだった。テレビや教師はきれいごとを言うが、そんなものないじゃないか、と子どもの濁りのない目には映っている。また、教師が「理由を言え」ということが多かったが、その理由というのが、向こうが作り出した理由であり、結論と一致していないことも感じていた。いまでこそ「理由」というのが実は科学上の理由ではなくて権威付けのことだと分かるが、いずれにしても誰だってそんなものが好きなはずがない。中学、高校、大学時代も、むしろ社会の実態を直視して分析していた。たとえば、法律をやると学校とは学校教育法を憲法とし、真理と正義を教わるところ、とされているが、もちろんそんな実態はない。しっかり現実を見れば、学校とはただのコンクリートの建物であり、暴力の威嚇も含め、大人にだまされ促されて子どもが平日日中に監禁・教育されているところにすぎない。しかも地域格差が大きい。東京の進学校と地方の公立学校では、条件が違いすぎる。業者模試の成績結果などをみていれば、東京の進学校の子はすごいが、地方は欄外ということがザラにある。子どもはその現実を直視しているが、どうも大人になるとそれが見えなくなる。学校なんてどこも同じでしょ、くらいに考えている。教師すらそう考えている。学力格差なんて自分に関係がないので、嘘でみているのである。しかし、大人が平等視している学校内部では、様々な格差や矛盾がある。勉強や行事は子どもにとって恐ろしくつらい。大人の頭が整理されたぶんだけ子どもに矛盾が行っているのだから、大人のエゴとしか思えない。また、子どもが自殺すると、なんで死ぬんだろうくらいに思っているが、子どもの世界には大人のそれ以上に醜悪ないじめや確執がある。大人はそれも都合よく忘れているし、どういうわけか、それがみえなくなっているので、自殺を不思議に思う。子どもというのは、親や教師なんか腹の立つ存在にしかみていないし、街は楽しいのになんでこんなさみしい建物でつまらない勉強をしなきゃいけないのかと思っているし、そのほか無数の重圧がかかっている。それを大人は見ない。我が子はうまくやっているくらいに思っている。そう思うと、エゴだらけの世界だし、それを嘘で調整している切ない世界でもある。

要するにこの社会の法は、社会的機能でなくて、ストーリーなのである。神話である。みんな平等で幸せに生きているという認識をうまく作っている。しかし、そんなありもしないものを苦労して作って馬鹿じゃないかと思う。誰でも子どものころ嘘を嫌ったはずである。嘘の法が好きな人がいるわけがない。たとえば学校は正義と真理を教えるところなんていわれたらくそ食らえと思うだろう。そんなもの教えていないからである。実態は点数競争である。ところが大人になるとみんな急にこの嘘を愛するようになる。これもまたエゴである。嘘が自分に好都合になると愛するのである。これもいい加減で反吐が出る。ただの自己愛ではないか。

法とは本当は社会の機能にすぎない。北朝鮮のように、祖国を愛する人材を育成するとか、そういう本音を直接法律にする国のほうが正当である。ありもしない幻を法にする日本というのは本当に気持ち悪い。