『脳の中の文学』(文芸春秋)で茂木健一郎が、

クオリアなるものが存在するとし、科学と文学は調和する、といったことを山鳥の尾の長々ともっともらしく語っているのだが、300ページもあって語彙が豊富な割にはこれはデマゴギーの書である。同氏は、日本社会には科学的な形而上学が疾走しているとし、同時に個人のかけがえのない一回性の文学が並存している、という。つまり、科学と文学が並存していて調和しているなどという。しかしこれにはウソがある。日本にある形而上学は科学ではなく神学である。形而上学に似せて作った神学があるにすぎない。この本を読めば分かるように、ハミルトニアン、ポアンカレ、カオス、統計的決定論、セントラルドグマ、アッテンボロ、イコノグラフィー、エロスとタナトスのディアレクティク、などと、いかにも受験や教養学部で習いました、という断片的な格好いい言葉を脈絡なくこれでもかと並べ、さらに野放図にドイツ語やフランス語を使い、日本の古典文学やフランス文学の一部を引用して、頭の悪い人間ならばどうしても信じるしかない心理状況に追い込まれるように権威付けを図っている。しかし、この本が述べているのは、この茂木健一郎様が日本の神であり、私の口から出てきたものが正しいのである、これを信じなさい、アーメン、だけである。しかし話はこれで終わらない。日本の神というのは何かを語るとき必ず政治的経済的社会的意味があり、むしろそれが核心である。では茂木はこの自分が神であるという構成によって何を語ろうとしているのか。それは、要するに、お前らがクルマを走らせろ、である。誰でも自分の一回性の人生と社会的役割がひどく矛盾することを知っている。自分は社会とは関係のない個人として尊厳を持って生きているはずである。なのになぜ社会的には均質化され代替可能な個人なのか。どう考えても矛盾する。そこで現れるのが茂木様である。茂木様は有名高校を出て東大理1に入り、理学部を出た上に法学部も出た。私が神に決まっている。少なくともこの日本に私以上のものがあろうか、くらいに考えている。そういう人が、該博な知識を魔法のように使い、デマゴギーの書を書けば、信じない者はいない、というわけである。しかし、有名校を出て東大の主要学部を卒業しても知識の真理性は何も保障されない。むしろただぐちゃぐちゃになるだけではないか。そうした三流の政治の、一流のデマゴギーの書というのは、日本に昔からあって、現代では茂木が書いたに過ぎない。いずれにせよ、現代日本は高度に発達したようにみえて何も進歩していないのである。