ロンドンの町並みなどと日本を比べてみればよい。

ロンドンではあるていど規制されているものの、車が比較的ゆるやかに往来しており、多少の乱れも気にしない。人間も同じです。これは各人が自分の頭で臨機に考えて活動している証拠です。ところが日本の車社会はおぞましい。一糸乱れぬ進行です。一寸の狂いもない。不気味なほどです。これは田舎でも都会でも同じです。ここまで狂いがないのは、何も考えていない証拠です。学校の訓練と同じで、みんなと同じように、精確に、という糞真面目な社会。この事実自体が憲法違反です。どうみても自由が死んでいるからです。しかしなぜ違憲にならないのでしょう。それは憲法までも形式化されており、この状態が相当と認められるからです。しかし実質は、どうみても政策的修正です。すべては都合よく政策的に修正を受けています。

先日国会で桝添氏が「日本の立法機関である国会で成立した法律だから尊重してもらわねばならない」と言っていたが、これは「政府にとって必要である」というような説得力に乏しい法律を無理矢理肯定するための権威付けです。国会での議論をみていると、めいめい、自分に都合のよい結論を、言葉を変えて権威付けを繰り返し応酬しているだけで、まさに、整形したブスたちがどれが一番きれい?などとやりあっているようなものです。しかも、その整形コンテストの審査員は、かならずしも一番よく整形できている人を選ぶわけではなく、その場のご都合ですから、もうどうしようもありません。
そもそも、公共の福祉とか政府にとって必要、とはなんでしょうか。形式化しており抽象的ということは、判断する人に全部任せているのと同じです。何々にとって必要とか、常識上相当などという裁判や政府答弁は、議論でも何でもないわけですが、何でこんな馬鹿な言葉がまかり通るのか理解できません。
仮に日本人の脳が野菜に過ぎず、言葉は文字通り恣意を覆い隠す無花果の葉みたいなものだとすると、これだけ無数の語彙を有しながら何もないという点では、見栄っ張りなだけの、あまりに悲惨な民族だと思います。