法の支配とは、内容の正しい憲法に法律が統率される状態をいう。

では日本法はどうか。日本法は憲法をもち、一見、法の支配が実現されているかにみえる。しかし、この憲法は実は法内容の正しさを目指したものではない。なぜなら、日本憲法は人権と公共の福祉の保障をうたうが、両者はそもそも矛盾したものであるうえに、その調整基準として、判例は、合理性や相当性といったあいまいな言葉しかあげていないからである。しかも、これらの言葉は形式化されており、要は最高裁が合理的とか相当と判断したものが合理的ないし相当なものとなるという循環論法である。そしてこの方法で実際に行われているのは、戦前の天皇大権の下で形成された日本の常識をそのまま追認するというものである。その日本の常識とは、周知のように、お上の支配のもと、ある狭い一定範囲内でのみ自由があたえられるというものである。日本社会は、戦前は、旧憲法にそのことが明確に記されていたが、戦後は公共の福祉に言葉を変え、初期の判例では一元的外在制約説を採って形式上も戦前と何も変わらないことをあからさまにしていたが、学説の通説である一元的内在制約説の批判を受けて、徐々に学説に合わせてきているという傾向はあるものの既述のように、学説の一元的内在制約説どおりのものではなく、合理性とか相当性というあいまいな基準による形式化された循環論法によって、実は形式上一元的内在制約説を採用したようにみせかけて実質は一元的外在制約を行い、戦前から続く天皇大権を保存しているのである。このように、日本憲法は本質は何も変わらないまま、形式だけ巧妙に変転させてきているといえる。現代日本社会は、実質的に自由はないのだが、憲法があたかも自由があるかのような形式をとり、マスコミがそうであるかのような幻想を振りまき、教科書でもそう教え、教育上の都合から社会の実態を子どもに解き明かす親や親戚がいないために、子どもは社会に出るまで完全に欺きとおされることとなる。大人は、今時そんなことに騙される子どもはいない、と油断している人もいるが、そうではない。あらゆる方法によってしっかり騙されているのである。というか、騙されなければいけないような状態に置かされている。具体的に言うなら、小中学生はそもそもまったく無知状態に置かれているため、社会の仕組みを言語的に理解することなど到底できないし、高校生は一生を左右すると喧伝される厳しい受験競争にさらされているため、現実のことなど考えないし、考えても利益がないようにされている。大学生はつかの間のエンジョイライフをするようにそそのかされ、遊んでいるし、後半では就職に向けて成績で拘束をかけるため、余裕がない。さらに、マスコミやネットが幻想を垂れ流して同調圧力をかけるから、ますます学生は幻想に騙され、現実から目をそらされることになる。ところが、大学を卒業するとあたかも刑務所の沈静房のごとき何のメロディも聞こえない環境が待っており、学生はそこで精神的に殺され、怒ることもできないまま頭を固定して奴隷のように働かされる毎日が待っているのである。その現実とは、結局、一元的内在制約によるアメリカ自由社会のような幻想形式によって実質的に行っている戦前のような不自由社会であり、現行日本憲法の体裁を信じてきた人は見事に裏切られる。子どもや学生にはまったく見えていないかもしれないが、日本社会の現実は、完全な奴隷社会であり、法律はもとより憲法さえも完全に形式化された機械的なものにすぎず、実質的内容があると思ってはいけない。つまり、大人は内容を抜きにした憲法体系を頭にインストールしてひたすら処理体系を実行しているだけの機械であり、人権とか公共の福祉という言葉を使っていても、それに精神はないのである。そう言う言葉を知っているから言っているだけで、そういう精神を持っているから言っているわけではない。大人がいっている美辞麗句は、実質的には自由の一元的外在制約(つまり人権の恣意的政策的修正)が行われるような仕組みになっており、ここが味噌である。つまり形式上は政治的考慮が入っていない正義のようなことを言っておいて、社会的機能としては、大人に都合のいいように子どもの自由を修正していき、気がつくと大人に都合の良い労働マシンに仕立て上げられる算段なのだから、これほど狡猾で卑劣な社会システムもない。しかも、現実には、ただ修正していくのではなく、大人の欲望を満たしつつ修正をかけていくという犯罪的加工過程が実施されている。すなわち、親や学校の教師などは、懲戒権の行使と称して、日々のストレス発散を兼ねているし、学校や職場には、修正と称した苛めが横行している。つまり、権利の行使者は、主観的にはストレス発散や苛めの意図でやっていることが、相手には正当な修正と受け取るようにしているわけだ