安定多機能高性能ロボット日本人

しかしこの国では様々なノルマが課されるため、どれか一つに深くコミットメントすることができない。これは実に不幸なことである。たとえば数学なら数学、物理なら物理、文学なら文学、サッカーならサッカーというふうに、それ一つだけをやるということができない。しかし人間というのはふつう自分がやりたいと思ったこと1つだけをやり続けるものであって、あれこれ手を出すというのは本来邪道である。ブラジルのサッカー選手はサッカーだけを生涯幸福にやり続けるために、無限の可能性が開花され、あのような柔軟で天才的なプレイができる。ところが日本のサッカー選手はあくまで集団主義的教育で様々なノルマを強制されて一定レベルまで強制育成され、その後どれか一つの道を選択する際にサッカーを選ぶため、たんなるサッカーの専門奴隷であり、まるで企業戦士のようなプレイをみせる。本人達は客観的には奴隷であり、人間としては死んでおり、ただ安定した多機能高性能のサッカーマシンとして奴隷労働をしているだけなのである。それゆえにサッカー技能にも自由闊達さがなく、試合は万事が機械的で、まるで官僚である。日本のサッカーチームは、固定した戦法を機械的に取り続けることで平均的総収支を最大化させようと思っているとしか考えられない。この奴隷社会の王様は、多様な能力を身につけさせてどのような事態にも対処できる完璧な奴隷を育成したいと思っているだけであって、一つのことに埋没すると視野が狭くなるから色々なことに手を出しなさいなどと、国民のことを考えてそうしているわけではない。実際、いろいろなことに手を出すとただ自分を失い散漫になるだけであって、一つのことに集中するのが悪いという証拠は無い。ひとりひとり、自分の好き勝手なことだけにコミットメントさせ、多様な能力の育成を怠ると王様に不都合だからそうしているのである。実際いくら多種多様な能力があり機能的にスーパーマンのような人間であっても、自分を無くし、脳が死んでおり、誰かに操られて利益を求め、まるでパソコンのように都会を這いずり回るサラリーマンになってしまったら、「真の負け組」である。多機能高性能でも人間として死んでいればジ・エンドである。ところが多くの人は自分が人間ではなく多機能高性能な奴隷だということに気づいていない。自分は多機能高性能で安定的に結果を出せるヒーローだと思いこんでいる。