常識は官僚や裁判官が作る

日本列島の上にはただの人間が一億いる。ただの人間がいるという以外、特に何も無い。予想以上に何も無いところが辛い。この国の権力はこのただの人間それも色々な意味で貧相な人間を奴隷にしてともかく飯を確保することを考えている。ありあわせの材料を使って何とかやりくりしていると思えばよい。色々考え合わせ、念仏を唱えて押し付けているだけで、実に苦しい社会である。あまりにも苦しすぎて、苦痛を緩和できるならば、なんでもする。法律で色々禁止されているのでさぞ道徳的な国かに思えるがそうでない。法律は建前で中身は無い。たとえば殺人罪があるのでみんな人を殺しちゃいけないという道徳を持っていそうだが、持っていない。今にもむかつく奴を殺さんばかりだが、つかまると地獄行きになるので殺すに殺せないというだけである。法律を作るほうも、殺人が道徳的にわるいと考えているので無く、殺人と言うことがおきると貴重な奴隷が死んで困るから殺人罪を設けているのである。その証拠に警察は死んでも良いような人が殺されても動かない。たとえば自殺は教義上殺人ではないが、事実上殺人である。しかし警察はそれを殺人と見ない。人を殺すというのは、社会通念上死の危険の高い行為をすること、などという教えである。社会通念というところが味噌である。トートロジーのようであってトートロジーで無い。おそらくたんに死の危険の高い行為というだけでは、日本語としては、不完全さが残るので、この社会で大多数がある自然発生的言語秩序においてそう考えている、というのを社会通念というらしい。ただ社会通念という言葉だけでは判断が恣意的になるという可能性は無視されている。教義は分解が許可されないので、こう言われたら従うしかない。崩れそうな崖に追い込んで落ちて死んだ場合は社会通念上の殺人で、自殺は社会通念上殺人とは言わない。社会通念とは自然発生的言語秩序であり、それが日本にあり、それは認識でき、裁判官が判断しても恣意的にならない、という前提で動いている。どの前提も怪しいが公認されていると従うしかないのが教義の特徴である。実際は日本に自然発生的言語秩序などなく、裁判官が作っている。言ったように法律で言っていることには何も意味はなく、そこに潜んでいる意味が全てである。社会通念上殺されれば捜査してもらえるが、社会通念外で殺されれば終わりである。自殺などがそれに当たる。国は社会通念という言葉により、救済したい人だけ捜査してあげるのである。ただし社会通念という形式から、あるていど固定性があり、救済したくはないが建前上救済せざるを得ない部類が出てくる。たとえばホームレスなどは国も救済したくないだろうが、ホームレスが市民と見なされており、市民が殺されたら捜査するのが社会通念だから、警察も仕方なく動いているに違いない。こういうふうに社会ができている。