特殊講義「現代詩、現代宗教と法」

科学総合大学が小説家養成大学になったり詐欺師養成学校になったりするのは日本だけである。少なくとも客観概念としては矛盾している。知的貧困社会ニッポンにおかれましては、ありもしない科学総合大学を妄想で作り出してそのままの名前を与え、小説家や詐欺師を量産する機能を営ませるのであります。

そもそも我が国に機能として科学総合大学だといいうる大学はありましょうか。そりゃ田舎の方にいけばありましょう。しかしその業績はどうでしょうか。まあ期待はできません。ないという説もあります。場合によっては天才的な子の受験準備期間だけが日本人の科学的行為であるという説もある。

無能で邪悪な著者は平気でウソをつきます。無能で邪悪であることを隠すためである。どうしようもないクズが権威を傘に借りて自己を主張する点が実におぞましい。こう言う輩は量子論的物理学的文学的四次元殺法できれいに料理して有能な善良者が食すに限ります。

学歴受験競争に打ち勝ち、科学総合大学で科学をやって社会に出たところが、多面的万華鏡的詩的概念が宗教と結合して支配する戦慄的悲劇的な神学的空間とはいかなる事態でありましょう。大学が竜宮城で、もらった玉手箱を開けたら、周囲がみんな子どもになり、自分だけ大人になったのであります。

法律のごときは、西洋のシュールレアリスムと東洋の諦観が調和し、言葉と言葉が金属的に摩擦してきしみ合い、苦々しい日常性の時間の中に魅惑の陶酔空間を作り上げるが、根底にあるのは常に日本農民の土着的リアリズムと宮廷政治という日常的経験的現実であります。

各人が他人の不利益に愉悦する怨念が夢を駆動しこれを時間が調整して実存主義へとつながって行く。この永遠に建設的生産的なるものが明日も明後日も道路を支配するのであります。音声学的、意味論的、解釈学的、民族学的な諸世界の定義関係が、天皇制の具体的歴史的な政治社会の現実において重なり合うとき、虚実一致の悟りの境地を開くのであります。

刑法各論講義「脅迫罪の存在意義」

刑法222条1項に脅迫罪が定められており、この体裁は、一応西洋刑法形式を採用することによる法的安全のためと思われるが、むろん、実質は社会機能面にあるのであり、それは何か。わが社会において名指しで殺害などを脅迫されることは最高刑2年に値するほどの行為なのであろうか。

刑法222条には

1 生命、身体、自由、名誉又は財産に対し害を加える旨を告知して人を脅迫した者は、二年以下の懲役又は三十万円以下の罰金に処する。

(昭和二二法一二四、平成三法三一本項改正)

2 親族の生命、身体、自由、名誉又は財産に対し害を加える旨を告知して人を脅迫した者も、前項と同様とする。


とある。判例として

脅迫罪は、本条列記の法益に対して危害の至るべきことの通告によって成立し、必ずしも被通告者が畏怖の念を起こしたことを必要としない。 (大判明43・11・15刑録一六・一九三七)

があり、畏怖の念を起こすかどうかについて法文言からかなり外れた解釈がされているが、必ずしも立法論にわたるものでない。なぜ畏怖の念を要件から外したのだろうか。その機能的意図はよくわからない。他の様々な世界との事情からそうしたのかもしれない。我が国社会が脅迫に対していかに警戒をしているかが分かる。

本条の罪は、人の意思決定の自由を保護法益とするから、自然人に対してのみ成立し、法人に対しては成立しない。したがって、株式会社に対して業務の遂行を妨害する旨告知する行為は、本条の罪に当たらない。 (大阪高判昭61・12・16高刑三九・四・五九二)

「人の意思決定の自由を保護法益とするから」との部分はおそらく本当でない。これは建前上の公共の福祉を述べているが、脅迫罪の機能目的は別にあるはずである。

我が国社会は非常におどおどした女々しい社会であり、脅迫行為をこのように殊更に処罰するのもそのような心の問題を保護しようという機能側面が多分にあると思われる。とはいえ、そのような暗黙の基準によるのみならず、時、場所、方法、相手、犯人の特殊性なども考慮されて、脅迫罪が逮捕されるかどうかが決されているようであり、これが日本国内では当たり前のこととなっている面がある。

そもそもこのような機能目的は、自由人権を保護する脅迫罪の建前に合致しないのだから、明示すれば憲法問題のおそれがある。そこで、機能目的を暗黙にしておき、理由を明示せずに、逮捕が妥当と思料される場合に警察機関が捜査に乗り出していることとなろう。

先日、評論家の宅八郎氏が、ネット上のコミュニケーション系サイトで「殺す」などと書いたとして逮捕されていた。憲法の建前からすると、「殺す」の2文字以上にこの世には人権侵害表現と思われるものが溢れていて、なぜ「殺す」と書いただけで逮捕騒動になるのか憲法実質的には全く理解しがたいが、まあ憲法は建前しかなく、公共の福祉による制限および背後の機能目的が考察されている我が国では、ともあれ、「殺す」と書くこと自体に、何らかののっぴきならない心の問題が生じるのだろう。私などは殺すといわれても何も感じないが、ショックを受ける人が多いのだろう。

いずれにせよ、脅迫をすると逮捕されるという実務が確立している以上、我が国社会において、「殺す」と言う行為が真の実質的反法行為であるという規範が創造されていると思われる。何もないように見える我が国において「殺す」と言ったり書いたりすることが、警察に逮捕されるに値する反社会的行為だという「規範」が存在しているというのは、珍しくも面白い話である。逆に言うと、江戸時代のお触書「殺すといってはならない」などが、小難しい刑法論の中に包み隠されているだけとも言えよう。虚しい話でもある。

憲法講義「言いたいことは言わせなければならない権利」

人権が公共の福祉により合理的に制限されるという憲法の基礎理論は、我が国の真の憲法のモデルを提供するが、真の憲法そのものでない。なぜかというと、我が国の政治家が憲法のいうような建前を真の憲法にしているなどとは誰も考えないだろうからである(文化を発展させ、など)。実際、憲法概念も含め、全ての世界が、より高次の「公益、法的安定性」、さらにいえば、結局はその場その場の権力者の思いつきや心の安定から、一つ一つの概念が整序されているのはみやすい道理である。

本条の保障は公の福祉に反しない限り、言いたいことは言わせなければならないということであり、いまだ言いたいことの内容も定まらず、これからその内容を作り出すための新聞記者の取材に関し、その取材源について、司法権の公正な発動について必要不可欠な証言の義務をも犠牲にして、証言拒絶の権利までも保障したものではない。 (最大判昭27・8・6刑集六・八・九七四)

というものがあるが、このように「表現の自由」を公共の福祉で制限するのは、本当に公共の福祉の範囲内で言いたいことを言わせるためでなく、ガス抜きができる余地を残しておく為のものと思われる。なぜなら「言いたいことは言わせる」といいながら、たとえば学校校長の前で「勉強なんかしたくないんだよクソが」と言ったら怒られるだろうし、校長の内面においても、言いたいことを言わせてあげようなどと思っているはずがないからである。

実際は、公共の福祉の範囲内で言いたいことを言って良いという形式から法律を制定し、その法律の適用を工夫することで、たとえば2ちゃんねるやブログなどに限って一定の形式で言いたいことを言わせ、ガス抜きをさせていると思われる。つまり、憲法21条の背後の真の趣旨機能は、自由な発想交換などでなく、ほとんどの場合がガス抜き、ないしは、この奴隷戦争社会におけるお互いの叱咤激励、詠唱による労働歌、軍歌的機能を表現に営ませようとしていると解される。

実際、我が国社会では、実質的なお上が人々の表現から社会に独自の思想が醸成する機能を撲滅し、お上の側の都合の良い思想を植え付ける機能を有するプロパガンダを行っているのであるから、建前が言うような表現の自由を許可しているわけがないのである。

現実には、表現の自由を制限するという建前から創設された法律等により、背後における真の表現を好き勝手に制限し、真の公益機能を実現しようとしていると思われる。現に社会では、公認されている言葉でなければ表現をしてはならないという暗黙のルールが張り巡らされており、もしそうでない表現をすると批判を受けるという回路まであるために、誰もが決まり切った表現しか行わずに奴隷化させられているのである。自由な発想、表現の流布や、それら同士から発想が創発するなどの、真の人間的な行為は一切禁止されている。

ここまで説明すれば、憲法すらも建前で、いかに我が国政府の人間がクズであるか了解されよう。