刑法各論講義「脅迫罪の存在意義」

刑法222条1項に脅迫罪が定められており、この体裁は、一応西洋刑法形式を採用することによる法的安全のためと思われるが、むろん、実質は社会機能面にあるのであり、それは何か。わが社会において名指しで殺害などを脅迫されることは最高刑2年に値するほどの行為なのであろうか。

刑法222条には

1 生命、身体、自由、名誉又は財産に対し害を加える旨を告知して人を脅迫した者は、二年以下の懲役又は三十万円以下の罰金に処する。

(昭和二二法一二四、平成三法三一本項改正)

2 親族の生命、身体、自由、名誉又は財産に対し害を加える旨を告知して人を脅迫した者も、前項と同様とする。


とある。判例として

脅迫罪は、本条列記の法益に対して危害の至るべきことの通告によって成立し、必ずしも被通告者が畏怖の念を起こしたことを必要としない。 (大判明43・11・15刑録一六・一九三七)

があり、畏怖の念を起こすかどうかについて法文言からかなり外れた解釈がされているが、必ずしも立法論にわたるものでない。なぜ畏怖の念を要件から外したのだろうか。その機能的意図はよくわからない。他の様々な世界との事情からそうしたのかもしれない。我が国社会が脅迫に対していかに警戒をしているかが分かる。

本条の罪は、人の意思決定の自由を保護法益とするから、自然人に対してのみ成立し、法人に対しては成立しない。したがって、株式会社に対して業務の遂行を妨害する旨告知する行為は、本条の罪に当たらない。 (大阪高判昭61・12・16高刑三九・四・五九二)

「人の意思決定の自由を保護法益とするから」との部分はおそらく本当でない。これは建前上の公共の福祉を述べているが、脅迫罪の機能目的は別にあるはずである。

我が国社会は非常におどおどした女々しい社会であり、脅迫行為をこのように殊更に処罰するのもそのような心の問題を保護しようという機能側面が多分にあると思われる。とはいえ、そのような暗黙の基準によるのみならず、時、場所、方法、相手、犯人の特殊性なども考慮されて、脅迫罪が逮捕されるかどうかが決されているようであり、これが日本国内では当たり前のこととなっている面がある。

そもそもこのような機能目的は、自由人権を保護する脅迫罪の建前に合致しないのだから、明示すれば憲法問題のおそれがある。そこで、機能目的を暗黙にしておき、理由を明示せずに、逮捕が妥当と思料される場合に警察機関が捜査に乗り出していることとなろう。

先日、評論家の宅八郎氏が、ネット上のコミュニケーション系サイトで「殺す」などと書いたとして逮捕されていた。憲法の建前からすると、「殺す」の2文字以上にこの世には人権侵害表現と思われるものが溢れていて、なぜ「殺す」と書いただけで逮捕騒動になるのか憲法実質的には全く理解しがたいが、まあ憲法は建前しかなく、公共の福祉による制限および背後の機能目的が考察されている我が国では、ともあれ、「殺す」と書くこと自体に、何らかののっぴきならない心の問題が生じるのだろう。私などは殺すといわれても何も感じないが、ショックを受ける人が多いのだろう。

いずれにせよ、脅迫をすると逮捕されるという実務が確立している以上、我が国社会において、「殺す」と言う行為が真の実質的反法行為であるという規範が創造されていると思われる。何もないように見える我が国において「殺す」と言ったり書いたりすることが、警察に逮捕されるに値する反社会的行為だという「規範」が存在しているというのは、珍しくも面白い話である。逆に言うと、江戸時代のお触書「殺すといってはならない」などが、小難しい刑法論の中に包み隠されているだけとも言えよう。虚しい話でもある。