憲法講義「言いたいことは言わせなければならない権利」

人権が公共の福祉により合理的に制限されるという憲法の基礎理論は、我が国の真の憲法のモデルを提供するが、真の憲法そのものでない。なぜかというと、我が国の政治家が憲法のいうような建前を真の憲法にしているなどとは誰も考えないだろうからである(文化を発展させ、など)。実際、憲法概念も含め、全ての世界が、より高次の「公益、法的安定性」、さらにいえば、結局はその場その場の権力者の思いつきや心の安定から、一つ一つの概念が整序されているのはみやすい道理である。

本条の保障は公の福祉に反しない限り、言いたいことは言わせなければならないということであり、いまだ言いたいことの内容も定まらず、これからその内容を作り出すための新聞記者の取材に関し、その取材源について、司法権の公正な発動について必要不可欠な証言の義務をも犠牲にして、証言拒絶の権利までも保障したものではない。 (最大判昭27・8・6刑集六・八・九七四)

というものがあるが、このように「表現の自由」を公共の福祉で制限するのは、本当に公共の福祉の範囲内で言いたいことを言わせるためでなく、ガス抜きができる余地を残しておく為のものと思われる。なぜなら「言いたいことは言わせる」といいながら、たとえば学校校長の前で「勉強なんかしたくないんだよクソが」と言ったら怒られるだろうし、校長の内面においても、言いたいことを言わせてあげようなどと思っているはずがないからである。

実際は、公共の福祉の範囲内で言いたいことを言って良いという形式から法律を制定し、その法律の適用を工夫することで、たとえば2ちゃんねるやブログなどに限って一定の形式で言いたいことを言わせ、ガス抜きをさせていると思われる。つまり、憲法21条の背後の真の趣旨機能は、自由な発想交換などでなく、ほとんどの場合がガス抜き、ないしは、この奴隷戦争社会におけるお互いの叱咤激励、詠唱による労働歌、軍歌的機能を表現に営ませようとしていると解される。

実際、我が国社会では、実質的なお上が人々の表現から社会に独自の思想が醸成する機能を撲滅し、お上の側の都合の良い思想を植え付ける機能を有するプロパガンダを行っているのであるから、建前が言うような表現の自由を許可しているわけがないのである。

現実には、表現の自由を制限するという建前から創設された法律等により、背後における真の表現を好き勝手に制限し、真の公益機能を実現しようとしていると思われる。現に社会では、公認されている言葉でなければ表現をしてはならないという暗黙のルールが張り巡らされており、もしそうでない表現をすると批判を受けるという回路まであるために、誰もが決まり切った表現しか行わずに奴隷化させられているのである。自由な発想、表現の流布や、それら同士から発想が創発するなどの、真の人間的な行為は一切禁止されている。

ここまで説明すれば、憲法すらも建前で、いかに我が国政府の人間がクズであるか了解されよう。