刑事法規と法的安定性

では刑事法規はどうか。刑事法、特に刑法は、私法と比べると総合考慮や類推適用も禁止されており、非常に論理的で整然としているように見える。たとえば、刑法第235条は「他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、十年以下の懲役に処する。」とし、労基法などの定め方と違い、明瞭である。もっとも、これについても怪しいものがないではなく、たとえば「窃取可能な物は窃盗罪の客体たり得ると解すべきであるから、財物とは、有体物である必要はなく、可動性と管理可能性を有し、これを所持し、その所持を継続、移転することを得るものであればよい。電流も容器に収容して、これを所持し移転することができる以上財物に当たる。 (大判明36・5・21刑録九・八七四)」などは、類推適用に限りなく近い限界事例であるように思う。しかし、私法と比較すると、相対的に安定的であり、一見適正な運用が行われているようにみえる。しかし問題なのは刑法ではなく、刑法を手続的に実現するための法律である刑事訴訟法である。刑訴法第247条は「公訴は、検察官がこれを行う。」とし、第248条は「犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは、公訴を提起しないことができる。」と定め、これらに関する判例である「捜査手続に違法があるとしても、それが必ずしも公訴提起の効力を当然に失わせるものでないことは、検察官の極めて広範な裁量にかかる公訴提起の性質にかんがみ明らかである。(最判昭44・12・5刑集二三・一二・一五八三」や「公訴提起を含む検察段階の措置に被告人に対する不当な差別や裁量権の逸脱等がないときは、被告人と対向的な共犯関係に立つ疑いのある者の一部が、警察段階の捜査において不当に有利な取扱いを受けたことがあったとしても、被告人に対する公訴提起の効力は、否定されない。 (最判昭56・6・26刑集三五・四・四二六)」、「軽傷交通事故を起こしたと認定してなされた運転免許停止処分の前歴に基づき反則者に当たらないとして速度違反につき公訴が提起された後、右交通事故に関する業務上過失傷害被告事件において傷害の事実の証明がないとする無罪判決が確定した場合においても、右処分が無効となるものではなく、かつ、権限ある行政庁又は裁判所により取り消されてもいない以上、右公訴提起は、適法である。 (最決昭63・10・28刑集四二・八・一二三九)」「無罪の判決が確定した場合においても、公訴の提起時において、検察官が現に収集した証拠資料及び通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪とみとめられる嫌疑があれば、当該公訴の提起は違法性を欠く。 (最判平元・6・29民集四三・六・六六四)」などをみると、検察に極めて広範な起訴裁量権が与えられていることが分かる。極め付きが「本条、検察庁法四条、刑訴法一条、刑訴規則一条二項などを総合して考えると、検察官の裁量権の逸脱が公訴の提起を無効ならしめる場合のあり得ることを否定することはできないが、それはたとえば公訴の提起自体が職務犯罪を構成するような極限的な場合に限られる。(最決昭55・12・17刑集三四・七・六七二)」である。これによって、検察には、ほとんど無制約の起訴裁量権が認められていることになる。つまり、検察が収集した資料に基づいて、犯罪の嫌疑があると合理的に認められれば、起訴をしても違法とはならないということである。しかも日本の刑事運用では、起訴された場合の有罪率は98%であり、起訴すなわち有罪の論理が成立している。いかに刑事実体法が精密であっても、それを運用する検察の活動に対する縛りが弱いのであれば、刑事実体法の精密さには何の意味がない。要するに、論理的な刑事実体法はフェイクであり、実際のところは刑事までが国家機関の裁量で運用されているのである。憲法解釈が最高裁の完全な裁量であることは明らかで、民事(行政事件含む)もほとんど裁判所の大岡裁きであることは説明済みである。そして刑事までも刑事司法の裁量ということが分かったので、この国の司法は国家機関の匙加減で運用されており、もはやこの国は完全に法治国家ではないということが証明された。そして、日本法の進歩の遅さを見れば、今後の改革も絶望的であろう。