大人は邪推の塊

日本の大人の邪推は醜悪である。とにかくすぐに悪意があると解釈する(きれいごとや正義はいかに本気でも真面目に信用しない)。子ども目には異常だ。たとえば、id:feuillesは、私がid:etudianteを巧妙にそそのかしてプロパガンダに利用していると解釈した(それに簡単に騙されたetudianteも問題だが)。しかし、そのような解釈は完全に恣意的であるし、私の方もそそのかしなどの意図を持ってなかったので、腹を抱えて笑ってしまった。要するに、Feuillesという人間の内面を自分で説明しただけのことである(日頃からそういうことをしているから、他人の言語行為にそれが投影されたのだろう)。また、Mansukeなどは、Akatori777やYo5を私がやっていると解釈したようである。おそらく文面が似ているということで勝手にそうみたのだろう。しかし、文面が似ているから同一人物と解釈されてはたまらない。なぜなら、私を尊敬するあまり、自分のブログで文体が似てくることはよくあることだからである。筆跡鑑定ならまだ分かるが、文体が似ているというのは、ブログのようなものの場合、同一性を証明する証拠にはならない。Feuillesの例の他でも、とにかく日本人と言うのは悪意に解釈する傾向があるようであり、うんざりした経験が何度もある。ぶっちゃけていえば、大数的傾向、日本人は口だけで、実際は悪意を持っているという事実があるからこうなるのではないか。私は学校で漂白されてまだ汚れていない個体であり、悪意で何かをしたことなど一度もないので、大人の反応には違和感を感じるが、連中にとっては当たり前になっているのだろう。

ちなみに私も日本社会全体に悪意があると邪推しているようにみえるが、これは邪推ではなく、仮説である。長く続いており、大きな構造の中の法則は、邪推ではなく、正当な推測である場合があるし、私もそのつもりでやっている。邪推とは違うわけである。