働くなんてばかげたことです

老人が作ったプランの一部を構成するだけです。たとえば学校であれば、文部科学省の書いた紙のとおりに、ただの人が先生を演じます。裁量ありません。そこにいるのは先生というほどの人間ではないのです。家に帰ったらテレビゲームをしているような人間が、学校に出てきて先生を構成しているだけです。予備校であれば、ただの人が校舎でプロ講師を構成します。しかしこれは普段はそのへんの一般人なのです。嘘をついてプロ講師などと言っているのです。プロ講師という概念は老人が考え出したものであり、人がその実態を作り出し、正確に演じれば給料がもらえます、というだけです。今では、本物の職業はなくなって、形骸と金だけになりました。金がもらえるので、形骸の中で演技をしているのです。演じ終わったら何をしているかわからないような人間が尊敬されるはずがありません。

日本人は普段の会話でなるだけ理性を発揮するよう訓練されているが、ほとんどは虚偽である。実際は、全く自己本位の価値観があり、それが一見理性的に見える会話を裏打ちしている。これはある程度会話を続けていれば分かる。向こうはひたすら分かったふりをするが(分からないと言うことが恥ずかしいことだと思いこんでいるらしい)、言っていることがちぐはぐになったり、「面白い」とか「興味深い」といった抽象的な評価を下すのみで、具体的にどう理解したのかは語ろうとしない。おそらく、分かっていないのに、必死で分かったふりをしているのだろう。要するに、ほとんどの日本人は実質的にアホで、いかにそれを他人に感づかれないようにするか、虚偽で構成するのに必死なのである。しかし都合の良いことに、虚偽構成を間違いさえしなければ、相手は表面的に解釈するので、それで通ってしまうと言う現実がある。アホが虚構に頼みの綱を見出すのはこの瞬間である。実質がないアホでも世の中に流布されている虚構を巧みに使えば優秀と評価されるから、嘘を喜んで使い、しまいには嘘から逃げられなくなってしまうのである。嘘は確かにアホを隠せるが、それだけのことで、嘘を使うと嘘の檻から出られなくなるという最大のデメリットがある。それこそ、嘘を流布し、アホに嘘を使うように促している者たちの真の狙いであり、かくして数多のアホは自分の社会的評価と引き換えに死ぬまで檻の中に入る運命となるのである。