人間を製品か何かと思っているくそ日本社会

日本の社会は、ある意味、製品の工程過程のようになっておりまして、
端から材料を入れてさまざまな装置で順次加工していき
進学、就職という二大製造機を経て、社会で使われる製品として完成します。
まあ、柿の種を作っている工程ラインを想像してください。
自然の米を研ぎ、炊き、捏ね、カットし、焼きを入れ、粒をそろえて
最後のところでパッキングされます。このパッキングという
のが学歴という品質保証書のようなものです。
では人間の場合、何が生成されているんでしょうか。
それは言語です。米が柿の種になるように、人間の場合は
言語が生成されます。その言語の洗練度合いによって
格付けされるわけです。
もうわかりましたね。学歴や成績なんて人間の価値とは
関係ないのです。なぜなら最後の言語の洗練度合いといっても
所詮は作られた言語にすぎないので、自然な言語活動ではないからです。
人為の言語体系は努力すれば誰でも作れます。しかし自然の言語活動は
人間が優れていないとできません。たとえば数学という言語を
すばらしく操る言語能力は、製造できません。それは自然の才能
でしかかなわないからです。
こういう製造ラインの途中に設けられている品質チェックシステムでしかない
成績や学歴に何の意味があるでしょう