数学者で晩年幸福そうな顔をしている人を見たことがない。駒場の老純粋数学者はとても欝そうな顔をしていたし、線形代数の学者は官僚数学者になってなんとか精神を保っているようだった。藤原正彦なども愚痴ばかりだし、とにかく幸せそうな人がいない。それもそのはずで、実務法律というのが全然論理的でないせいである。憲法などはいうまでもないが、民法もほとんど国語であるし、刑法は、理論は数学みたいだが、実務刑法とはあまり関係がない。そして、法律は全体として矛盾を塗り潰しているだけなので、数学者にとっては苦痛でしかないだろう。厳密な論理整合こそ数学の命だからである。東大の化学科を出て裁判官になった人が裁判所の蛇足を指弾していたが、あれも理系の思想が法律と合わなかったせいだろう。法律とはその国そのものだとすると、この国は理系それも数学者にとっては地獄である。ともかくこの社会に筋道なんて存在しないのだから、筋道を追うのを専門とする数学者が気を病むのは当然である。


id:akatori777氏が大学で理工学を教えているとする。それは彼のノルマ(条件)である。大学に行って、黒板の前で理工学を教えていれば、月末に大学から一定の給料が下さる。彼は主としてその目的で大学で理工学を教えているのであり、他に主要な目的はあるまい。ここでポイントは、その教え方が規則的で固定しているということである。すなわち、理工学を教えるとなったら、規定どおりノートを間違いなく教えるのであり、講義中にいきなり自分の家庭事情を事細かに話し出したり、社会の仕組みを話し出したりする教師はいない(これも考えてみれば恐ろしいことだ。いてもよさそうなのに、絶対にいない)。理工学の教師は理工学を間違いなく教えるのであり、それ以外の事態は起こりえないわけである。同様にして、生物学者が生物を教え、法学者が法学を教え、経済学者が経済学を教えるということが、全国で規則的に行われる。ここでの問題は、その規則は一体どんな目的で存在しているのかということである。ともかく絶対的な規則があるわけだから、それを統合する目的が存在するに決まっている。それは何かが実は明確でない。建前上は、教育、ということになっているのかもしれないが、ある規則的な現象を、教育、という抽象的な言葉でまとめるのは、単なる辻褄合わせであり、実質的には別の目的があるかもしれない。たとえば、問題になった例の世界史の補習の意味が、生徒に世界史だけは理解して卒業してほしいということだと思っている人はいないであろうし、補習を絶対強制する校長の意図が生徒の為を思ってのことだと思っている人もあるまい。また、当の教師達は、自分は教育目的で教えていると信じ込んでいても、その規則的な行為が実は別の目的に使われている、という可能性は、大いにあるのではないか。要するに、誰もがある条件にしたがって規則的に生活しているのであるが、自分にはまったくその気が無くても、その規則的な行動自体が第三者によって利用されている可能性は十分あるのである。

すべてが無意味になったと感じられるのは、社会が成熟しすぎて政治家が満足しちゃったからです。もともとこの国には事物固有の意味なんてなかったんですから。政治家の不平不満が事物に意味を与えていたのだから、政治家が満足すれば、すべてが無意味になるのは当たり前ですよ。たとえば、日本の大学という機関は、西洋で言うような自然固有の学術機関ではなくて、政治家が目的を達するために置いた箱にすぎません。政治家にやることがなくなれば、大学にもやることがなくなる関係にあるから、政治家が満足しちゃったら、大学も無意味になります。日本ワロスというわけです。

今は役員が腐り、三流社長が闊歩するうんこ社会になっちゃって、まじめな社員は愛想を尽かして退職し、一般社員も仕事の手を抜き、ニートが増え、経済繁栄を謳歌していると言えばしているが、日本が正体をさらしたなって感じだ。理性は虚偽だった。現段階での日本人の本質は官僚制にあらず三流の人間付き合いにある。欝だ。ちなみに東京は都市ではなく日本株式会社本社ビル。地方は出先機関。社長は政治家、役員は官僚。私は会社に金を払って社内に個室を借りて待機してる社員。