お題目上は民主国家、法治国家という体裁を取っているが、実際はお上の裁量で全てが判断されるという幕府政治そのままだというところに救いようのなさがある訳です。

実質が幕府の統治なのであれば制度もそうしておいた方が矛盾がなく、またそうすべきです。
そうでなく本当に法治国家となりたいのであれば、社会情勢と論理を照らし合わせて法と執行の基準を明確にして運営する必要がありますが、日本がそうなる見込みはまったくありません。
社会(外の世界)では建前上いろいろなカタガキがついてそれっぽい行動をしている人も、本音は金、犯罪、セックスといった欲が渦巻いている場合がほとんどです。
そもそも人格と言うのは肩書きや他人が見ているところでの建前の行動ではなく、他人が見ていないところで何をするのかというところで判断されます。
以前も言いましたが弁護士などとちやほやされてもそれは形式上のまやかしであり、実社会で関わりのない人間に知られないとあれば他人が嫌がることでも平然とねちねち行う者がいるなどその好例です。

ありもしない形式をとるという知的不正直というかいい加減さがすごい。社会人というのは毎日の新聞や判決や調書で、ありもしないウソを何百ページも書いているんですが、そういうむなしい作業がなぜできるんでしょうかね。

大人になってありもしないウソを毎日出力するために、学校で漢字を覚え、計算ドリルで事務処理能力をやしなってるわけです。法曹三者や記者や警察なんて、漢字をいっぱい知ってるだけのノータリンですよ。思想も思考もないんだから
んでまた、ありもしないウソでないと社会に通用しないという悲酸さ。

それがリアルは嘘だらけって話ですね。
悲惨なんですよ。芝居をしていないと生活すらままならないんですから。
どんなときでも一切事実を言ってはいけない、正義を個人で遂行してもいけないという様ですからこの息苦しさは異常です。

まあしかしそれが常識だからその常識の上でどうするかということですが、とりあえず常識があまりに人間を殺してるから、人間を回復するために、いまある常識を撤廃し、軽量化しろという主張になりますな。あと、学校あたりは、試験じゃなくて、幸福に知的追求する制度にしないといけない。今はどうみてもそれがない

現在の常識を変えるのは、それこそ至難の業ですね。まず常識が根本的におかしいので、相当の期間をかけてマスメディアが事実を報道するのが大衆をマインドコントロールから解き放つ必要があるのですが、メディアがマインドコントロールの尖兵なのですから現状これは不可能です。
また、学校もこの常識改革がなされなければ幸福な知的追求を尊ぶという姿勢を持つことはありえませんし、社会の情勢が試験の点数を要求する以上学校が変革することもないでしょう。
私が考えている現実的な妥協案は、全ての学校を単位制にし、取得単位に応じた学位を順次与えるという方法です。
学校は全国でカリキュラムを統一し、学習者は学校を任意に選択できるようにすれば強制的に固定される人間関係がなくなるため深刻ないじめや嫌がらせの問題は現状よりかなり発生しにくくなることが期待できます。