犯罪は主観と客観に分かれる。つまり、どんなつもりがあって、何をしたか、である。目的的行為論といって、その主客を目的の下に統合しようとする考え方がある。ある人間の行為現象を犯罪と評価するかは、目的的行為の評価にほかならぬわけである。ある目的的行為を禁圧すべきかどうか。しかし、目的的行為を禁圧すべきかどうかの最終的根拠は、理想化された人権社会では、人権保護に優越する政府利益があるかどうかである。もし日本がそういう社会だと仮定すると、たとえば覚せい剤取締法は違憲である。覚せい剤吸引行為は、自分で気持ちよくなるためにクスリを吸う、という目的的行為である。自分で気持ちよくなるためにクスリを吸うのは幸福追求権の行使であるし、商売で他者に譲渡するのも、いずれも他者加害がないのだから、禁圧にはどうみても人権保護機関たる政府の利益はない。ところが、覚せい剤取締法41条の2では、吸引はもちろん、取引なども禁止しており、これに反すると5年や10年の長期の懲役刑が科される。

第41条 覚せい剤を、みだりに、本邦若しくは外国に輸入し、本邦若しくは外国から輸出し、又は製造した者(第41条の5第1項第2号に該当するものを除く。)は、1年以上の有期懲役に処する。2 営利の目的で前項の罪を犯した者は、無期若しくは3年以上の懲役に処し、又は情状により無期若しくは3年以上の懲役及び1千万円以下の罰金に処する。3 前2項の未遂罪は、罰する。 第41条の2 覚せい剤を、みだりに、所持し、譲り渡し、又は譲り受けた者(第42条第5号に該当する者を除く。)は、10年以下の懲役に処する。2 営利の目的で前項の罪を犯した者は、1年以上の有期懲役に処し、又は情状により1年以上の有期懲役及び500万円以下の罰金に処する。3 前2項の未遂罪は、罰する。

もし憲法が実在で理想的なものならこれは違憲無効である。ところがこれが通用するのは、この法は実在の法にみせかけてつくった聖書であり、解釈が非科学的であるから、どんな結論でも引き出せるからである。刑法の原理には、科学的真理は含まれているとは限らないし、人間を修正するのだという原理くらいしか本当は持っていない。つまり立法者が修正になると判断したものが列挙されているだけなのである。アメリカでいう公共の福祉というのは、人権保障という原則に対する例外のはずである。例外とは、限定的、制限的、特殊的なものをいう。ところが日本では、例外が原則化している。様々な行政罰則や軽犯罪法なども含めると、人権保障ではなく公共の福祉が原則化するのである。日本法でいうところの原則例外というのは、ある利益考量を覆い隠す神学的術語にすぎない。そして、原則の例外化という実態があっても、神学上証明ができないのをいいことに放置している。つまり、上の方で偉い人がそういい、規則であって、覆らない神学的命題を根拠にして、本来の意味とはまぎゃくの結論を導き出す。「みだりに」とか「と解すべきである」とか「やむをえない事情」「合理的で相当な制限」「社会通念上相当」などのふしぎな言葉や理屈を魔法のように使えば、このようなことが可能なのである。要するに法律家の使っている言葉は、パチモノである。