学校が業者模試を使える理由は何か。

教育に必要な教材を民間から調達するということか。しかし考えて見れば学校はなぜわざわざ外部の模試を使うのだろう。実力を測定するため、というが、学校の定期試験は実力を測定していないことを認めるのか。大学受験のため、というが、学校の目的に受験の準備はないはずだし、学校がわざわざ受験の準備をしてやる必要はないはずである。しかし、教育社会には、なんとなく、学校が受験準備をすべきとか、業者模試をフル活用しろという暗黙の要請がある。それに応じて、学校行政は、苦しい理屈をひねり出す。模試を使っている理由は、学校内部だけでは測定できない広い意味での実力を測定するためである、とか、カリキュラムに受験準備が入るのは、子どもたちを次なるステップに無理なく導いてあげるためのものであり、学校の目的の範囲を逸脱するとはいえない、という理屈が飛び出す(これはただの屁理屈で、実はない。なのでもし実があると思って信じたらろくなことにはならない。この辺も日本の政治のクズなところではある。言っていることを信じた人がバカを見るのだから)。周知のように行政法や行政規則と言うのは、その場所その場所の役人の恣意的な解釈が横行しているので、このような理屈は朝飯前である。「このような行政官の思いつきは、いつでも政策や行政の便宜によって恣意的に変えられてゆくものである。そのうえ、この行政官の法解釈は、公定力理論によって守られ、権威あるものとして通用し、拘束力を持つとされるにおいては、反法治主義的傾向はいっそう拡大強化される」(『法というものの考え方』205頁、渡辺洋三著)。ところで模試活用が「学校内部だけでは測定できない広い意味での実力を測定するためである」という理由を採った場合、その結果を提出せよ、ということにはならないのだろうか。つまり、代々木ゼミなら代々木ゼミの模試を受けた場合、結果および全国ランキングが返却されるはずである。学校が実力測定にそれを用いた以上、これを教育の資料とすべきなのは当然だし、学校の定期テストと同じように記録に残して管理すべきであるはずである。そうすると、業者模試の結果も教育の結果として評価されることとなるが、もしその結果において、学力の地域格差や学校間格差が顕著である場合、教育行政はどのような言い訳をするのだろう。彼らは、普段は、ほとんどデキレースの定期試験を作成して生徒の学力を予定調和的に調整し、学力に問題とすべき全国格差はない、と弁解するが、どうみても無理ではないだろうか。ある学校の生徒の模試成績結果だけを集め、経年変化も加味して、恒常的に全国順位が下の方に集中している場合、その学校は端的に実力がない、との烙印を押される。ここから、地域の学力レベルの低さ、学校の努力不足が決定的となり、平等神話は崩壊する。しかもその結果がたんなるお遊びの場合は良いが、学力という教育の至上目的にかかわる命題の結果であるだけに等閑に附することはできない。その上に、もし、ある大学に特定高校出身者が集中しており、さらに、ある官庁や企業にその大学出身者が集中していて、しかも、官庁や企業間に、権力や経済力の意味において抜き差しならぬ格差があることが証明された場合(証明するのは容易なはずである)、高校の学力格差が人生の格差に直結しているという事実が証明されたこととなって、結局は、どこに住んでいるか、どこの学校で教育を受けたかが人生を左右するということが明らかになり、大問題になるはずである。つまり、階級社会という現実があらわとなり、憲法的常識は崩壊する。これは空論ではなくて、実際、一流企業や中央官庁合格者を輩出する東大は約半数が灘、開成、ラサール、などの出身者であるが、これらの学校は業者模試で常に上位にランキングしている学校である。日本のように本質的に同質性の高い社会では、このようなことが起こる。人生色々、というが、本当に色々というほどではなく、多少のバラエティはありますよ、という程度の意味である。もし私のような変人だらけの社会(アメリカのような)ならば、法を色々に活用して、本当に多様な社会が形成されると思うが、同質的な集団社会では、そういうことにはならない。日本では、色々といいつつも、みんな典型的な場合によりそって、こじんまりと生きているのである。

いずれにしろ、学校にまつわるこうしたドグマは、子どもからみれば馬鹿みたいなことである。濁らない目で世の中を見ている子どもにとって、学校の定期試験はデキレースだが、業者模試は実力勝負だと分かっているし、日本は階級奴隷社会だと気づいている。しかし、それを語るのに、ここまで迂遠なウソをつかなければいけないというのは、相当くだらない国である。