刑事裁判における量刑判断の基準は「記録を精査し、かつ、当審における事実取調の結果を参酌し、これらに現われた本件犯行の罪質、態様、動機、被告人の年令、性行、経歴、家庭の事情、犯罪後の情況、本件犯行の社会的影響等量刑の資料となるべき諸般の情状を総合考察し」(http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/9F5A0100D81DBF1149256A850030AC7A.pdf、最高裁大法廷)とされている。しかし、これは具体的基準ではなく、基準を設定する際の観点にすぎないことに注意すべきである。記録を精査し、結果を参酌し、と書いてあっても、記録を精査し、結果を参酌した証拠はどこにもないし、参酌とは何のことなのかも定義されていない。また、罪質、態様、動機、被告人の年令、性行、経歴、家庭の事情、犯罪後の情況、本件犯行の社会的影響などと具体的な要素を挙げているのは高く評価されるべきだが、「諸般の情状を総合考察し」にいたってその信頼性は崩壊する。なぜなら、これらの要素の具体的定義はないし、どのような割合で評価するのかなどについては何も述べていないからである。どんな結論が出てもこの基準で評価したと言われれば、この基準で評価しなかったという証明は、少なくとも神学的には不可能であるから、抵抗しようがない。ちなみに私が弁護士から聞いたところによれば、この基準は完全に大義名分にすぎず、実際の結論は裁判官が胸三寸で決めるし、裁判官の機嫌を損ねると証明できないように判決文を工夫して悪意のある結論を下す、と述べていた。要するにこの基準から受ける「裁判では細かい事情まで詳しく分析した上で判決を下してくれる」という印象は幻である。この基準を設定した上で、どんな結論を下しても神学的には反論できないことの恐ろしさを知っておくべきである。こうして分析していくと、言葉から受ける謹厳な印象に反して、実態は真底ろくでもない社会だと分かる。