断片的な知識を詰め込んで自分に都合のいい政治を語るような前近代的な生き方が近代的視点から間違っていることは明らかである。しかし世間の一般大衆はその生き方に甘んじており、しかも自分の人生そのものなので、これを否定するわけにはいかない。何としてでも肯定し続けなければいけない。ゆえにそのための構成が問題となる。私の経験によれば、彼らは絶対に「君の生き方が正当である、この社会は間違っている」、という当然の事実を述べることを回避する。それを述べてしまえば自分を肯定することが不可能になるからである。そこで、自分を肯定できる余地を残しつつ、こちら側に譲歩する構成を探る。それが「こういうことを書くということは君は頭がよいんだろうね」という程度のものである。こう言っておけば、こちら側がなんとなく正しいというメッセージを発しつつも、「君が正しいからといってそれがこの国に当てはまるわけではない」という言い逃れの道を用意することができる。そこから、「君はこの国に生きているのである」「ゆえにこの国のルールに従え」という形式推論によって、肝心の結果だけは自分がもっていく。これが神学的な手法である。政治的には、中世の宗教裁判と同じである。

論理的に生きている者にとって、「こういうことを書くということは君は頭がよいんだろうね」と言いながら「この国のルールに従え」と言うのは、論理一貫していないので、矛盾だと感じている。私も今までこの手の矛盾にさんざん苦しまされてきた。しかし、こう言っている当人は神学的世界に生きているので、矛盾と思っていないのである。取調べの検察官の前で「憲法11条と12条は矛盾してます」と言ったら「それは君がそう思ってるだけじゃないの」といわれた。これは、私が科学的解釈で矛盾していると主張しているのに対して、むこうは神学的には整合している、と言っているのである。第二回公判で、裁判官に対し、刑訴法には憲法的常識がないと言ったら、「君は一面的なんじゃないの」といわれたが、これも同じである。彼らは神学的には何も矛盾はないと思っている。究極的には自分のおぼしめしが法であり、もともとであると思っているからである。

いずれにせよ私は22歳くらいまでは、神学的世界ではなく論理的世界に生きていた。論理的世界から神学的世界を見ると矛盾だらけであり、惨憺たる毎日だった。たいていの大人は矛盾なき御伽噺の世界に住んでいるが、公害のごとく、そこからはみ出した矛盾が全部子どもの論理的世界に行っているのである。ちょうど、都市が整理されて、廃棄物が自然を侵しているのと似ている。