本物の数学と言うのは

やっている本人が発狂気味のものである。48時間ぶっつづけで紙に向かっているとか、クスリをやっているとか、という状態でないと、数学においては何も生み出されない。これに対して偽物の数学というのは、工学などに応用するため、大学の教室でやっている計算練習のようなものである。これは漢字の書き取りみたいなものなので、数学ではない。日本では、後者の偽物の数学をする人は広く許容している。偽物の数学ならば、バカみたいなブログを書きながらでも、バイトをしながらでも両立してできるようになっている。理学部でも工学部でも、バカみたいなブログを書きながら、バイトや飲み会もやっている人のしている数学は、偽物のはずである。しかし、前者の、本物の数学は事実上許容していない。確かに、部屋に閉じこもるとか、拘置所に入るという構成により、本物の数学はできるが、経済活動や人付き合いとの両立を可能とする構成は払底している。現在の日本社会において、部屋に閉じこもってカフェインを吸いながら48時間数学だけに没頭している人がいたとして、そもそも世間がそのような人格を許容していない。そのような人格を世間と折り合わせる構成が存在しない。ゆえに本物の数学者というのは、必然、世間から隔離されたコーナーに追い込まれざるを得なくなる。なぜ社会が本物の数学者の生きやすい構成を用意していないか。要するに、政治的な意味において、本物の数学ほど日本の実際主義から遠いものはないからである。400年たってようやく役に立つかたたないかという定理が一つ証明されるというような学問は、日本人の価値観から最も遠いところにある。そのような政治体が、法や常識の上において、数学者を優遇する構成を設定するはずがない。しかし、本物の数学をしようとしている人はいるのだし、そういう少数派が残酷な状態に置かれているということをなんとなく知っておくべきである。