人権社会と言うのは、

客観的な自由を最大限保障して、個の自由な浮動に成り行きを任せる社会ということで、禁圧するべきは個人の客観的自由に害を与える行為(他者加害)、ということになる。では何をもって他者加害というのか。個の自由な浮動という点では、直接的で明確な他者加害の禁止が原則になるはずである。つまり、殺人とか監禁などは犯罪になりうる。強盗や傷害もなる。しかし、暴行や脅迫や窃盗は疑問である。ましてや覚せい剤の使用や取引は自由に決まっているし、軽犯罪法などはほとんど違憲だろう。回りまわって個に害を与えるのだ、という行為を禁止していけば、すべての行為は回りまわってそうなる可能性があるのだから、何もできなくなって、個の自由な浮動はなくなるではないか。つまり、そうした時点でもう人権社会ではないのである。日本は人権社会ではない。何社会かと言えば、人権社会ではないのに人権社会だと言い張り、言っていることとやっていることが違う神が支配する世界である。つまり、聖書に人権社会と書いておいて、解釈で人民を管理するのである。

ということで日本の憲法の人権と公共の福祉というのは、概念ではなくて、聖書のことばであり、内容が定義されず、権威付けに使われる道具に化している。何が人権と公共の福祉の調和なのかは、立法者と裁判所に任されているが、何をもってそういうかの範囲がまったく限定されておらず、何でもいえるという点では、立法者と解釈者の気まぐれ自体が公共の福祉だと言っても正当化可能である。たとえば拘置所の自弁物品の内容は、「拘置所内の秩序を乱さない範囲で適当なものとして」拘置所の自由裁量で決まっているし、拘置所の中で着用可能な物品は、「所内の秩序を乱すかどうか」という文言にそって拘置所の会議が決める。穴の開いたものは「規格外」として領置されるが、規格外とは何なのか分からない。聞いても、わからないと言っていた。警察署留置場に持ち込み可能なものも、当該留置場の秩序を乱すかどうかで決められているが、私が係官に「具体的にどういう基準ですか」と質問したところによると、いやここにいる係官みんなで議論して決めるんだよ、というだけで、何も基準はないようだった。また、「このあいだ風呂に入らなかったので今日風呂に入れてくれ」と言ったところ「規則でできない。そんなことしたらみんな入れてくれってなるでしょ。絶対だめ」と言っていたのに、翌日けろっとした顔で、「風呂に入りたいんでしょ。今入りなさい」とか言い出す。規則はどこにいったのだろう。もしかしたら頼み方の問題に過ぎないのではないかと思った。「入れてくれ」ではなく「入れてもらえませんか」と言っていたらその日に入れてくれたかもしれない。また、笑顔で言ったり、機嫌をとったり、私がヤクザだったら入れてくれたかもしれない。これらを総合すると、秩序とか規格とかいうのには内容がなくて、たんなる権威付けの空語に過ぎないのではないかと思った。