私が昔持っていた価値観の体系は、なるだけ理想的な「社会機能的法」に支配される社会を作るということだが、これはほとんど夢であり、しかも原理上、現行法の解釈にはどう頑張っても読み込めないものであるから、生きるうえでは半ば断念し、今の日本社会の中で生き、現行の日本法を解釈する際の観点としては、単に現実がどうなっているのか、という観点しかない。つまり、実務と判例である。そして、その現実を認識した上で、冒頭の価値観を近似的に実現しようとする自分なりの体系的解釈、ということになる。実務と判例は周知のように相当厳しくレベルが低い。あまりにもレベルが低すぎて、民主主義を謳いながら、裁判官や検事は自分が王様のような権力を振るう。ゆえに、憲法は国民主権と言っているけれども、これは何かの間違いで、日本法上の主権者は彼らであるという現実認識である。すなわち、日本社会とは、彼らの体系である。id:akatori777のところに書いたように、私は日本にいる少数の本物の人間に統治され、残りを奴隷にする社会を日本の理想としている。ところが、裁判官や検事がその少数の本物の人間の部類とは思えない。たんに試験好きのエゴイスト集団としか思えない。私は25年生きてきて、ああこれは本物だな、という人間に何人か会ってきて、何でこういう人が権力者にならぬのだろう、と歯がゆい思いをしてきた。実際の現代日本社会の権力者は、なんとも醜悪で欲にまみれた偽物であふれている。よって私の理想に近似するシステムを現行法に読み込もうとするならば、実質的な権力の所在を少数の本物に移すか、少数の本物を権力者に採用できる制度を作れ、ということになる。しかし、大学入試制度や資格試験制度は少数の本物を迫害し、原則的に欲にまみれたいわばクズ的人間を権力の座に吸い上げるシステムになっている。実際今の時代は本物の人間は迫害されるのである。利益追求型の典型的なクズ人間が大手を振って歩く時代になっている。このような現実は私の体系が許さないというわけである。

この国には自然と神社と箱しかないのだから、この国の本質があるとすると、それはただ個人個人の今現在の心だけではないか。しかし、通常、誰もその心を外部にみせない。むしろ徹底的に隠す。それは沈黙や社会的構成による。個人を抹消した共有可能な総合知としての常識もけっこうだが、日本人の動静は結局心の発現でしかない。ということで裁判も警察事務も、裁判官や警察官の階級心理にすぎない。