判例などに「相当に具体的であれば給与条例主義に反しない」などと書いてある。

ここで、給与条例主義や相当や具体的、という言葉に意味があるか。世間では意味があると信じられているようだが、私見では、ないように思う。そもそも、社会通念とか通常の一般人とかいう言葉でもそうだが、つきつめていくとどれも想像上の話の中の言葉であり、現実に根をもつものがない。歴史的社会的に十分精密に検討すれば、根を持たせようとしても、もたせられないことが分かる。簡単に言えば、日本の歴史において、日本人は「相当」とか「社会通念」「具体的」とかいうことばを生み出しもしなければ考えもしなかったからである。そして、法律や常識の上でも意味の定義がない。少数の例外を除いて、その言葉から受ける印象から敷衍される最低限の意味すら実はない場合が多いのである。つまり、これらの言葉は、何の意味ももたせられずになんとなく使われているのだが、判例資料を集めて分析すれば、実はこれらの言葉の意味は、法律の判断者自身だと分かる。こういう基準をあてはめているところをみれば、あてはめと称して自分で意味を作っていることが明らかだからである。ゆえに、法律や常識の上の空語の真の意味は判断者である、という命題が成立していいように思う。そして、法律の中の最高の空語は公共の福祉である。つまり実務は法の支配が人の支配になっているとの心証があるが、これは矛盾というほかないから、もし法の支配を維持するならば、実務を改めよ、ということになる。具体的とか相当という定義のない言葉(究極には公共の福祉にいきつく)を使いながら実質は自分が意味を作っているのであれば、立法措置だという批判以前に、法の支配ですらないからである。改め方としては、無定義語をきちんと客観的一義的に定義することである。実は日本法にはそれすらないのである。判例が確立したり定義したと思った基準や定義の中にさらに無定義語が入っているしまつである。このとおり、現行法やその解釈は、ほとんど立法措置となっており、それを通り越して法の支配の原則すら破綻しているといわざるをえないから、日本は法治国家ではないと解するのが相当である。