教科書に騙された、という問題は、簡単ではない。

まず教科書とは、いわば教書だが、これはいろいろに解釈できる(Barl弁護士が言うところのals ob)。しかし、子どもは、授業やテスト、子ども特有の環境によって、この教書をいわば文面どおり、もしくは学者的な理想的な意味と解釈するように強制されている。教育の過程でそういう体系は子どもの中に固まっていく。ところが実社会の教書の体系は全然別である。つまり、社会に出る前と後で、体系の変更を強制されるわけである。そこに伴う精神的苦痛は相当なものではないか。今回の脅迫行為は、いわば、「教皇てめえいい加減なことして人をふりまわしてんじゃねえ」ということである。

どうもこの国の人間は、物事の内容にひとつも注目していない。この国の人間にとっての問題は、形である。ある形をとっているかどうか、それで満足している。仕事でも試験でも遊びでもすべてそうである。実質的なことはなにもしようとしない。形を整えることに腐心している。しかし、形を整えることの「実質的意味」は、形の奴隷になることである。人々は、形が大事だ、と豪語しながら、実は奴隷になっているのである。