学者と言うのはもしかしたら理論のない判例実務の中に理論があるとみて生きている人たちなのかもしれない。都合の悪い事実を無視すればなんとか理論があるとみれなくもない。そして、そういう理論があって、帰結も理論的に出ている、と信じているのかもしれない。上の例で言えば、人間の頭には社会的諸利益を客観的に比較考量できる能力があって、日本社会にはヨーロッパ社会でいうような害意という概念が実在して、権利濫用はけっして裁判官の気持ち一つではなくて、人間の理性の最高のところによって判断されている、と信じているのだろう。子どもや学生もそう信じているに違いない。またうまいことに教科書や判決の文章がそういう妄想ができるように書かれている。しかし、これはほとんど薄氷である。ちょっとでも現実に触れればその期待は裏切られる。判例を見た時点で普通はがっかりするし、なまの刑事手続を体験したならば、理論などなくて別の現実の体系があるだけだ、ということはすぐに分かる。刑事手続を体験した者、現実社会に生きた者は、判例実務に理論などなく、ただ人間の体系があって、それを言葉を変えているだけである、という立場をとるようになるだろう。そこから、日本法はクソだ、したがって日本国家はクソだ、奉仕する価値も生きる価値もない、という命題を導き出すのは容易である。

私が立法者ならば、一定の試験に合格した者に、実用にならない学問だけして暮らせるような生活保障を与える法律を作る。これは公式というところが味噌である。もちろん今でも、拘置所に入るとか、閑職の公務員になるなどの非公式の構成により、事実上、働きもしないのに税金から生活費を得て実用にならない学問をしている人がいるかもしれない。公務員はほとんど働いていないから、そういうことも十分可能だろう。しかし、やはり公認してはじめて、社会の中で、安んじて真の学問ができるのではないか。たとえば、その法律には、「数学者」という資格類型があって、自宅にいながら数学の研究をすることを仕事とする。そして生活費は毎月国から支給がある。この法律の立法趣旨は、現在の大学のような形骸とは違って、学問の本質や本旨を徹底することとし、たとえば「数学者」という資格類型を作る趣旨は、数学という学問はもともと実用にならないので、実用的結果を求めることは数学研究の本質に反する、したがって、結果が出なくても生活保障を継続することが法律全体の趣旨に合致する、というものとなる。また、資格類型に応じたバッジの着用義務を課して、数学者などを正式に社会の一員と認められるようにする。現在では、真の数学者はひきこもりやニートとのそしりをうけるし、仮に働いているとしても、予備校教師や家庭教師といった不本意な称号に甘んじざるを得ない。このような立法事実は正義に反するから、法律を制定して、数学研究をしていることを国として正式に認めるべきなのは当然である。