宇奈月温泉事件の判例について、

大村と言う学者が、この判例は、社会的諸利益の比較考量という客観的要件と、害意という主観的要件を考慮して、権利濫用を判断するという意味で、権利濫用理論が確立された、と解説している。しかしさっぱり意味が分からない。この判例は、要するに、「所有権の侵害による損失はいうに足らず、侵害の除去が著しく困難であり、それができるとしても莫大な費用を要すべき場合において、当該除去請求は単に所有権の行使たる外形を有するにとどまり、真に権利救済を目的とするものではないのであって、社会観念上所有権の目的に違背してその機能として許されるべき範囲を逸脱するものであり権利の濫用にほかならない」というのだが、どこに客観的要件や主観的要件が定立されているのか。普通に見ると、いろいろな事情を考慮して、社会の大多数からひんしゅくをかうような一定の閾値を越えたと裁判官が判断したものが権利の濫用だ、と言っているとしか思えず、何か客観的な理論が確立されているとは思えない。仮に、社会的諸利益の比較考量と害意によって権利濫用が成立すると言う理論があるとしてみよう。それでも、社会的諸利益の比較考量とは何なのか、害意とは何なのかがはっきり定義されていないため(専門的に言えば、一般的抽象的多義的)、この2つの言葉にどのような意味を含ませることも実務上は可能であり、結局何も述べていないから何の理論も確立されていないとみることも可能である。確かに、ある見方によれば、この基準で権利濫用を判断したからと言ってそれが「公益性を生の形で問題にして私益と比較考量している」(加藤一郎・法協82巻6号)証拠はない、と言えるかもしれないが、逆に言えば、この基準では、公益性を生の形で問題にして私益と比較考量していない、という証拠もないのである。問題の秘密の鍵は、この部分問題ではなく、日本法というドグマーティクの体系全体が、結局は何も述べない、何も具体化しない、すべては判断者の裁量であることを可能としていることである。究極的には憲法が何も述べておらず、判例も具体化したふりをして何も言わないことを繰り返す。そして適用にあたっては、その場その場の判断者の主観的総合判断を許すのである。