そういえば取材に対する放映の期待権は原則ありませんという最高裁判決があったが、

あれも読めば読むほど糞だと思ったものだ。これは要するにNHKの取材どおりに放送されると思っていたのにされなかったということで争ったものだが、一審は、何も基準を立てずに、部分的に期待権侵害があります、とした。まず、期待権なんてものがどこから出てきたのか。民法709条の「法律上保護に値する利益」から打ち出の小槌のように引き出したのだろうか。しかし、基準を立てないで判断したのは、もはや司法ではない。二審は、期待するのもやむをえない事情があるときは保護するという基準で処理した。これは基準を立てているが、やむをえない、というのがあいまいである。最高裁は、放送法を考慮して、原則期待権はないが、対価を払ったとか例外的な場合はOKという基準にした。まあ期待権の引き出し方がもはや雑としかいえないうえに、基準も事実上立法に等しい。解釈ということで事実上立法をして、あてはめでも立法をしているのが実態である。こういうのに振りまわされて勝ったり負けたりするというのはひどいもんで日本には事実上司法なんぞないよ。定義上の法というのはただの権威付けで実はない。定義も見なおさないし、あかとり氏がいうように、ラオウに不都合なことをすると箱にぶち込まれて社会から隔離される、悪いことをしない限りはそういうことをしないが、許された狭い範囲内で、資本家の奴隷になりつつ、マスコミに踊らされて小さな自由を謳歌しなさい、というのがこの国の仕組み。科学知識は、警察の鑑識などの狭い部屋で、指紋検査やDNA鑑定の技術として、あくまで社会に役立つ限りでしか認められず、理論など認められていないに等しい。技術もない人間は機械労働で、そりゃ自殺者も出るわ。